Wednesday, May 24, 2006

Ferdinand Hodler











Ferdinand Hodler (フェルディナンド・ホドラー)
1853年3月14日スイスの首都ベルン (Berne) 生まれ。
スイスの画家。
象徴主義絵画を描いていた時期があり、その時期の作品が有名なことから、象徴主義の画家とされることが多い。

6人兄弟の長男として、貧しい大工の家庭に生まれた。
6歳の時に結核で父親と二人の弟を失うと、母親はデコラティブ・ペインティングの職人と再婚したが、その母親もホドラーが14歳のときに結核で亡くなってしまい、残りの兄弟も次々と病で亡くなっていった。
坂崎乙郎は 『夜の画家たち』 に収録されたホドラーに関する評論 「実在と影――ホードラー」 の中で、そうした常に死と隣り合わせであった苛酷な子供時代についての、

「家族のあいだには、いつも死が支配していた。しまいには、とうとう、家のなかにはいつも死人がいるのだと思いこむようになった」
「あのころ、私たちはみじめなくらい貧しかったけれど、埋葬はどうしてもしないわけにはいかなかった。粗末な手押車で、母の棺は墓地に運ばれた。そのあとから、私は弟妹と一緒について歩いた」
- フェルディナンド・ホドラー
(坂崎乙郎 「実在と影――ホードラー」 (『夜の画家たち』 収録) より)

というホドラー自身の回想を引用している。
あまりの生活苦に継父は子供たちを残してイングランドへと旅立ってしまった。
ホドラーはその継父に10歳を迎える前からデコラティブ・ペインティングの手ほどきを受けていたこともあって、継父が去ると地元の画家フェルディナント・ゾンマー (Ferdinand Sommer) の元に預けられた。

18歳となったホドラーは、1871年の終わり頃、スイスで最も芸術が盛んだったジュネーブに移り住んだ。
観光客相手に絵を描いて生計を立てるという生活を送り、その合間を縫ってラート美術館 (Musée Rath) で模写をして絵画を独り学んでいたところ、ジュネーブ美術学校 (Genfer Kunstschule) で教鞭を執っていたバルトロメ・メイン (Barthélemy Menn) ――若い頃、パリでジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル (Jean-Auguste-Dominique Ingres) の教えを受け、テオドール・ルソー (Théodore Rousseau) やジャン=バティスト・カミーユ・コロー (Jean-Baptiste Camille Corot) と親交を結んだスイスの風景画家――に出会い、美術学校で学ぶよう誘われ、1872年年から1877年まで授業料免除という取り計らいの生徒として美術学校に通った。
ホドラーは美術学校で学びながらも、絵を描くのはあくまで生活の手段であって画家を目指しているという訳でもなかったという。
それでも観光客相手に描く絵以外に写実主義に根ざした風景画、人物画、肖像画を描いており、1874年にコンクールに出品した写実的作品の 《森の中》 という作品が入賞したことがきっかけでようやく絵を描くことこそが自身の進んで行く道であるということに目覚め、その後数年、写実主義傾向の作品を描いていくことになった。
バーゼル美術館館長で近代絵画の研究家でもあったゲオルグ・シュミット (Georg Schmidt) はこの初期のホドラーのスタイルを、家族の死に付き纏われた生活環境と当時のスイスにおけるプチブルの没落という社会環境に板挟みとなったホドラー自身が置かれた環境がテーマとして、社会問題を提起する形で作品に反映されているとして 「問題的なリアリズム」 と名付け、更にホドラーのこの時期のスタイルを同年代のゴッホのスタイルとの間に共通点を見いだして比較しているそうなのだが、坂崎乙郎はその論旨に関して疑義を呈している。

ホドラーは美術学校を卒業する前年の1875年、バーゼルへ旅行をしているが、この旅の目的のひとつはバーゼル市立美術館を訪れることだったと思われる。
バーゼル市立美術館は公共美術館としては世界最古のもののひとつとして知られており、15世紀から16世紀頃のルネサンス期、南ドイツ地方で活躍した画家の作品を多数収蔵していることで有名だったのだ。
ホドラーは写実主義傾向の作品を描く一方で、同時代的な絵画の潮流以外にも目を向けようとし、そこから何かを得る心積もりだったのではないだろうか。
バーゼル市立美術館においてホドラーが最も感銘を受けたのは、1515年頃から約十年の間、バーゼルを拠点にして裕福層をパトロンに宗教画や肖像画を多く描いたハンス・ホルバイン (Hans Holbein) の所蔵作品で、ホドラーは作品を研究して多くのことを学び取った。
特に 《死せるキリスト "Der tote Christus im Grabe (The Body of the Dead Christ in the Tomb)"》 からは死のテーマの扱い方で強く影響を受けたという。
ホドラーが作品を制作する際、いつも死者と共にいたという苛酷だった子供時代の記憶は常に付き纏っていたのではないか、しかしそれを作品で表現しあぐねいていたのではないか、などと勝手な想像を膨らませてみると、《死せるキリスト》 との出合いはホドラーにとって一つの啓示となったのではないかと思われ、後のホドラー独特のスタイルの確立を高らかに告げる作品、《夜》 へ至る道の端緒がここにあるのではないかという気さえしてくる。

1878年から1879年にかけ、ホドラーはスペインのマドリードに滞在。
マドリードの風景画や女性たちを描き、プラド美術館の名画を研究することで南方特有の強い光と色彩での表現と画面の構成を学び取り、その後の独自のスタイルを生み出すための糧を得ている。
ホドラーは手に入れたものからどのように変化したのか、坂崎乙郎は 「実在と影――ホードラー」 の中でマドリードから帰国直後にホドラーが描いた 《恢復に向かう女》 を取り上げ、その魅力について語っているので、そこからみてみたい。
当時、スイスにあっては最も芸術に理解のある街として知られていたジュネーブは、しかし、カルヴァン派の生まれた街でもあり、その宗教の許す範囲内においては芸術に寛容であっただけで、芸術の革新への理解があるという訳ではなかったという。
そういった時代と社会の中でホドラーは写実主義傾向の作品を描いてきたのだが、《恢復に向かう女》 には印象派的な色彩によって描かれたという面があるだけでなく、更にその向こうへ、坂崎乙郎は象徴主義的、表現主義的作品と言いたいわけではないのだがと断りつつも、新しい時代へと踏み込む姿勢が表れていて、自分はそこに心惹かれるのだと述べている。しかし、先にも述べたように当時のジュネーブは芸術に関しては保守的であったこともあって、ホドラーの作品は評価を得ることが出来ず、ホドラーは依然貧しいままであった。

新しい時代へと踏み込んだホドラーの描く肖像画は、力強い構成力をもったものへと変化していく。
ホドラー研究家のヴァルター・ユーバーヴァッサー (Walter Überwasser) はホドラーの肖像画について、「人物が立っているにせよ、坐っているにせよ、あるいは戦い、争っているばあいでも、つねに人間の全姿を」 描こうと試みていると評したそうで、坂崎乙郎は印象派の画家が 「人間を観察する眼」 でもって作品を描いたのだとすると、ホドラーとムンクは 「人間を洞察しようとする眼」 でもって作品を描いたのではないかと述べ、

こうしたホードラーの手法が、やがて一九二〇年代のノイエ・ザッハリッヒカイト (新・即物主義) の時代になると、あきらかにオットー・ディックスの作品に、いちじるしい影響となってあらわれてくる。
- 坂崎乙郎 「実在と影――ホードラー」 (『夜の画家たち』 収録) より

と指摘している。
オットー・ディックスという名前は、20世紀絵画に興味でもない限りあまり馴染みのないものと思われるが、個人的にそのディックスを含めたノイエ・ザッハリッヒカイトの作家たちが大好きで、いずれエントリを立てたいと思っているので、詳細はその時に改めて。

1884年、ホドラーはアウグスティーヌ・デュピン (Augustine Dupin) と出会う。
アウグスティーヌはホドラーの作品のモデルを務め、愛人関係を結び、その後も結婚することなく二人の関係は続いていく。
そして1887年、ふたりの間に息子が誕生したが、この年の夏、ホドラーはスイスのベルン州にある小さな街、インターラーケン (Interlaken) でベルタ・シュトゥッキ (Bertha Stucki) と出会い、ベルタとも交際を始めてしまった。
1889年、当時36歳だったホドラーは21歳のベルタとラ・ショー=ド=フォン (La Chaux-de-Fonds) で結婚。
結婚後もアウグスティーヌとの関係は続いており、そのことが原因かどうかは不明だが、幸せな結婚生活を営むことが出来なかったらしく、1891年にはベルタと離婚してしまう。
ホドラーは離婚してしばらくたった1897年に "Poetry" という作品でこの頃のことを表現したというのだけど、検索してもその作品を探し出すことが出来ない。
結婚生活は維持することが出来なかったホドラーだったが、アウグスティーヌの愛人関係は1909年にアウグスティーヌが亡くなるまで続いた。

1890年、ホドラーは 《夜 "Die Nacht"》 を発表する。
先に述べたように、この 《夜》 という作品はホドラー独特のスタイルを確立させた記念碑的作品であり、またそれだけでなく、象徴主義の画家として注目を浴びるきっかけとなった作品でもあるのだが、その前年、ホドラーは画家としての自信を喪失しかけていたのだという。
ヴェルナー・ハフトマン (Werner Haftmann) は 『二十世紀の絵画 (Malerei im Zwanzigsten Jahrhundert)』 の中で、

一八八九年、ホードラーは作品 「力闘士の行列」 をパリで出品、シャヴァンヌの称賛を受けた。とはいえ、ホードラーはいまだ、パセティックで装飾的な彼の構想を、写実的な手法で解決するにいたらず、この ため、彼はしばしば芸術家を見舞う、深刻な危機におちいった。神秘的で宗教的な思いが彼を不安にし、暗い幻想がたくましい生活力をおびやかしたのである。 こうして 「夜」 は生まれた。
- ヴェルナー・ハフトマン 『二十世紀の絵画』
(坂崎乙郎 「実在と影――ホードラー」 (『夜の画家たち』 収録) より)

そと、《夜》 が誕生する直前にホドラーを襲った精神的危機について触れている。
《夜》 に描かれているのは、横長のキャンバスに倣う様に並行に横たわった何人かの男女の姿。
向かって左上には体を伸ばして横たわった女二人と男が、右下にも体を伸ばして横たわった男女のペアが、右上には上から右に弧を描く感じで横たわった男が、左下には横向きで体を丸めて横たわった女が睡眠状態の姿として描かれている。
しかし画面中央に描かれた男だけは違っていて、その男は確かに横たわった姿が描かれてはいるのだが、その強張った必死の形相から、その何かを押し戻そうとしている力の入った両腕から、そのもがく様な両足から、その緊張した男の全身から、何者かから逃れようとしている姿として描かれているのが分かる。
男は何から逃れようとしているのだろう。
例えば、左上の男女三人は三角関係の破綻の示す姿が、右下のカップルは仲睦まじいその姿が、右上の男は自分勝手で周りを顧みない姿が、左下の女は孤独で癒されない姿が描かれているのだとしよう。
では、画面中央の男と黒いシーツに覆われたものは一体何を描いているのだろうか。
男の上には黒いシーツで覆われた何かがあり、それが男を圧し掛かっていて、それが男に恐怖を与えている、というのはまず間違いない。
そこで、男を圧し掛かっている黒いシーツに覆われたものの正体を推し量るに当たって、何かヒントになるものがないか改めて画面に注目してみると、描かれた男女の配置がこの問題の糸口であることに気が付く。
そこまで来ると後は簡単で、その正体が女であるという解答が導き出せる (いや、男だろという反論もあるかと思うが、女同士というカップリングが描かれていない以上、男同士もないということにしておく)。
黒いシーツに覆われたものの正体が女だとして、男はその何に怯えているのだろう、この女は一体何者なのだろう。
普通、作中の謎は、謎を解くことを目的とし、その答えに向かっていく推理小説などは別にして、そのまま謎として見る者にその答を委ねたりするものなのだが、ホドラーは作者として、

「それは死を意味する。眠りのうちに人を襲う死を意味する」
- フェルディナンド・ホドラー
(坂崎乙郎 「実在と影――ホードラー」 (『夜の画家たち』 収録) より)

と、黒いシーツに覆われたものの正体について答えている。
つまり、黒いシーツに覆われたものの正体が女である、と仮定すれば、――どういうことになるのか、との問いにホドラーは 「女は死である」 と答えたことになるのである。
ちなみに、「真理が女である、と仮定すれば、――どういうことになるのか?」 という一節で始まるニーチェの 『善悪の彼岸』 が世に出たのは1886年のこと。

《夜》 を皮切りに、《春》、《幻滅》、《失意の人々 (生に疲れし人々)》、《選ばれた人 (選ばれし者)》、《真理 (真実)》、《昼》 といったホドラーの代表作となる作品がその後おおよそ10年の間に制作されていく。
この時代の作品には画面に5人前後の人物を何かの規則に沿うように配置されているものが多く、ホドラーはそれを 「平行の原理 (Parallelismus、パラレリスムス、Parallelism、パラレリズム)」 という形式に従ったものだとしているが、これだけではよく分からないのでホドラー自身の発言を引いてみよう。

私が絵画でとくに大事だと思うのは形式である。わたしは作品のもつ明快さを愛する。したがって、私は平行の原理 (Parallelismus) を愛するものだ。私は多くの作品で、四人ないし五人の人物を選んで描いたが、これは同一の感情を表現するためだった。というのは、反覆こそ、同じ印象をよりいっそう深めることができるからなのだ。このばあい、私が好んで選んだのは、五という数だが、その理由は、奇数のほうがわざとらしからぬ中心点を画面に設定して、五人の人物をここに集約することができるからだ。これこそ作品の秩序をたかめるためのものなのだ。
- フェルディナンド・ホドラー
(坂崎乙郎 「実在と影――ホードラー」 (『夜の画家たち』 収録) より)

パラレリズムというのは、似た文を繰り返してリズムや効果を作り出す文学の修辞技法のひとつで、ホドラーはそれを絵画の中に持ち込み、反覆でもって感情の増幅、いや深化を試みたということなのだろう。
20世紀美術では 「反復」 が重要なテーマの一つとなるが、それとはまた別の 「反復」 が1890年以降のホドラーの作品の中にあるということが分かる。

絵を描き続けたホドラーは、1918年5月19日にジュネーブで亡くなった。

ポストした作品をおさらいしておくと、

《真理 "Der Auserwählte"》 (1893-1894)
《選ばれし者 Ⅱ"Az Igazsag Ⅱ"》 (1903)
《昼 "Der Tag (The day)"》 (1900)
《夜 "Die Nacht (The Night)"》 (1890)
《夢 "Mechta (The Dream)"》 (1897)
《ルイーズ=デルフィーヌ・ジュコサールの肖像 "Porträt der Louise-Delphine Duchosal"》 (1885)
《芸術家の妻 ベルテ・ヤックスの肖像 "Porträt der Berthe Jacques, Frau des Künstlers"》 (1894)
《恢復に向かう女 "Die Genesende (The Convalescent)"》 (1880)
《恍惚の女 "Woman in Ecstasy"》 (-)
《死の床に横たわるアウグスティーヌ・デュピン "Die tote Augustine Dupin auf dem Sterbebett"》 (1909)

3点目の 《昼》 は 《夜》 と対をなしている作品で《夜》 で 「女は死である」 と描いたホドラーが、今度は生の歓びや美しさを描いている。
5点目の 《夢》 には、かつてバーゼルで見たハンス・ホルバインの 『死せるキリスト』 の記憶が象徴主義、アールヌーヴォーからの影響と結びついた作品なのではないかと思う。
7点目の 《芸術家の妻 ベルテ・ヤックスの肖像》 ホドラーの2番目の妻となったベルテ・ヤックスの肖像なのだが、この作品が描かれた年に二人は出会っている。
タイトルに 「芸術家の妻」 という一文が含まれているが、二人が実際に結婚したのは4年後の1898年のこと。

Wikipedia
Ferdinand Hodler
CGFA- Misc. Artists -H- Page 10
Ferdinand Hodler
ЖЗЛ (ФЕРДИНАНД ХОДЛЕР - АПОФЕОЗ ШВЕЙЦАРСКОГО МОДЕРНА). Комментарии : LiveInternet - Российский Сервис Онлайн-Дневников


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