Friday, May 5, 2006

Joel-Peter Witkin











Joel-Peter Witkin (ジョエル=ピーター・ウィトキン)
1939年9月13日にニューヨーク市のブルックリン (Brooklyn) で生まれた。
ニューメキシコ州 (New Mexico) 中央部にあるアルバカーキ (Albuquerque) 在住。
アメリカの写真家。

ユダヤ人の父とローマカトリックの母との間に双子として生まれた。
ウィトキンは両親について、
父はバイオリニストを目指していたが結局挫折してガラス職人に、母もまた無声映画時代に女優を志したが果せなかった。そのため家の中にはいつも倦怠感が渦巻いていた。 - 「JOEL~PETER WITKIN [ある写真家の饒舌なタブロー]」 SWITCH 1993年11月号より
と幼少期を振り返り発言している。
夫婦は宗教の違いが原因で離婚し、ウィトキンが三歳の頃、父は家を出て行った。
以下、SWITCH 誌の記事を基に、Wikipedia も参照しつつ、ジョエル=ピーター・ウィトキンの経歴をまとめていく。

双子の弟 (或は兄)、ジェローム・ウィトキン (Jerome Witkin) は写実主義の画家として活動しているが、双子であることについてウィトキンは、
「双子には側にいることが必要なタイプと、側にいてはいけないタイプがある。私達の場合は後者だ」 - 「JOEL~PETER WITKIN [ある写真家の饒舌なタブロー]」 SWITCH 1993年11月号より
と語っている。
また、ジョエル=ピーター・ウィトキンの息子のカーセン・ウィトキン (Kersen Witkin) は画家に、ジェローム・ウィトキンの息子のクリスチャン・ウィトキン (Christian Witkin) はファッションとポートレートを中心に撮影するフォトグラファとなっている。

ウィトキンがカメラを手にしたのは6歳の頃だったという。
聖セシリア・グラマー・スクール (Saint Cecelia's grammar school) を卒業後、グローバー・クリーブランド高等学校 (Grover Cleveland High School) へと進学。
在学中、ウィトキンの撮影した一枚の写真が、二年前に壮大な写真展 『人間家族 (The Family of Man)』 を企画し成功させた写真家のエドワード・スタイケン (Edward Steichen) の手で選ばれ、MOMA の写真展に出品され、有名写真家に混じってオープニング・パーティーに参加したウィトキンは幸福感を感じ、後にその幸福感がその後写真家になる自分の人生を決定付けたのかもしてないと振り返っている。
その四年後である1961年、ウィトキンはニューヨークの写真業界の中にいた。
それと並行するようにクーパー・ユニオン・スクール・オブ・アート (Cooper Union School of Art) の夜間クラスへ通い、彫刻を専攻。
といっても正規の学生ではなく、所謂モグリの学生だったことから、ベトナム戦争へと徴兵されたが、写真班を希望したため、通常より一年長い三年間の兵役に就いた。
といっても、直接戦場に赴いたことはなく、国内やヨーロッパのキャンプを転々としながら軍隊内の事故や自殺の現場を撮影していたという。
しかし、
「なぜアメリカがベトナムと戦わなければならないのかまったく理解できないのに軍隊にい続けるということは苦痛だった。ましてアートのない生活は生き地獄だった」 - 「JOEL~PETER WITKIN [ある写真家の饒舌なタブロー]」 SWITCH 1993年11月号より
そうで、ウィトキンは、射撃場を何度も訪れては飛び交う銃弾に肝試しと称して近づき、その実、自殺を試みるという生活を送っていたが、1964年、政府が正規軍をベトナムに送り出す前の年に除隊。
ブルックリンへと戻り、1967年からフリーランスの写真家として活動を始め、その後、City Walls Inc. の公式カメラマンとなる。
また、徴兵で中断された学生生活も再開し、1973年から1974年にかけコロンビア大学 (Columbia University) で学び、1974年にはクーパー・ユニオンで学士号 (Bachelor of Arts) を取得ている。
この頃、精神に不安を抱えていたウィトキンはペンシルヴァニアのヨガ道場に通っていたが、それがきっかけでインドに渡り、四ヶ月を瞑想に費やしている。
その体験と自身の創作を結び付け、
「・・・・・・軍隊から戻って一〇年めのことで、まだ精神的に不安定な時期だった。頭を剃って黄色い服を着て、有機栽培で作られた野菜を口にしながらおきてから寝るまでのほとんどの時間を瞑想に充てた。今でも確信しているが、精神を建て直すには瞑想しかない。瞑想が精神を解き放ち、自然や宇宙と一つにさせるんだ」。 誰を見るわけでもなく正面を向いたまま彼は離し続けている。
「アシュラムを出て北部のライ病患者の収容施設にボランティアとして出かけて行った時のことだ。生と死が文字通りに隣り合わせに並んでいるようなひどい場所だった。その中のひとり、私が看ていた男がこの腕の中で息絶えた。それは強烈な体験だった。今でもその男の幻影と渇いた亡骸の軽さが蘇ってくることがある。もちろんその体験が今の私の写真の元になったなどと言っているのではない。しかし今でもあの感触が私を取り巻き続けているんだ。あの時、彼の体を支えながら頭に湧き上ってきた思い。この男の魂はどこへいってしまうんだ?今、この骨と皮だけの肉体に何が起こっているんだ?私が写真を通して探しているのは、つまりそういうことなんだ。
私はカルマを信じているし、霊魂再来を信じている。何よりも魂の力を信じている。強者が弱者を踏み潰すことで成り立つ権力と歴史、そんな構造に支えられた世界では精神や哲学など脆い存在にすぎないのかもしれない。しかしだからこそ、私は作品の中で一方的な支配を、一面的な世界を、そしてそれらが押し付けてくる歴史を玩ぶのだ」 - 「JOEL~PETER WITKIN [ある写真家の饒舌なタブロー]」 SWITCH 1993年11月号より
と語っていて、なるほどと思いながら読みつつも、その内容があまりにこちらが思い描くジョエル=ピーター・ウィトキン像に当て嵌まり過ぎてしまいるので、何故か困ってしまう。
このインド滞在をここではコロンビア大学卒業後の出来事に位置づけたが、実際は何時頃のことなのか正確なことはわからない。
もしかすると、コロンビア大学入学前の出来事かもしれないが、とりあえず、時系列的にコロンビア大学卒業後のこととして処理しておく。
その後、知人の奨学金真正に便乗してウィトキンも申し込みをしてみたところ、みごと合格し、1975年からアルバカーキのニューメキシコ大学 (University of New Mexico) の大学院へ進むことになり、写真を専攻、美術学士 (Master of Fine Arts) を取得している。
在学中、とあるゲイ・バーでウィトキンは後に結婚することになるシンシアと出会っている。

ジョエル=ピーター・ウィトキンの発言が日本語で読めるSWITCH 誌の記事は、今では古本屋で漁りでもしない限り、読むこともままならないこともあって、もっと引用したいのだが、それはまたいずれ立てるであろうウィトキンのエントリように残しておくことにして、最後に、ポストした作品のタイトルと、いくつかの作品に触れてとりあえずのお終いとしたい。

ポストしたのは、

"Las Meninas, New Mexico" (1987)
"The wife of Cain" (1981)
"Woman on a Table" (1987)
"Daphne and Apollo" (1990)
"Woman in the Blue Hat" (1985)
"Portrait of a Dwarf" (Los Angeles, 1987)
"Invention of Milk" (1982)
"Mother of the Future" (2004)
"Face of a Woman" (2004)
"Fictional Store Fronts: Camera Store Window" (2004)

の10点。
SWITCH の特集の中で、ウィトキンは雑誌に掲載された14点の自作についてついて、日本の読者に向けた解説を行っているのだが、ポストした10点の中にその内の2点が含まれているので、作品を鑑賞する手がかりに引用してみたい。
まずは "Portrait of a Dwarf" (邦題は 『小人の肖像』 となっている)。
モデルは 『E.T.』 の体をしていた。彼女は子供の頃から舞台やサイドショウのステージに立っていた。彼女はただ歳をとるだけで、成長しなかった。母親に依存しきっている。もしもこの世界でひとりきりになったら彼女はもっともひどい残虐行為の犠牲になるだろうだからこそ私は巨人という愚か者、恐怖と偏見と暴力の温床になっているこの世界での愚かさを具現する男と結婚する花嫁として、ポーズをとらせたのだ。 - 「JOEL~PETER WITKIN [ある写真家の饒舌なタブロー]」 SWITCH 1993年11月号より

もう1点は "Woman on a Table" (こちらの邦題は 『テーブルの上の女性』 となっている)。
誕生以来、彼女は病気とともに成長した。三九回にわたる手術のあとで、病気は取り除かれた――両足とともに。生まれてからこれまでずっと痛みに耐えてきたことで彼女は超自然的な人間になった。体内から抜け出て、外科医たちが彼女の体を開く様子を生命のない自分の体の近くで見つめることができた。彼女を世界の上に浮遊させることで彼女の威厳を、移動と孤立の彼女の特別な空間を示すために、私は彼女を小さなテーブルの上にのせて撮影した。 - 「JOEL~PETER WITKIN [ある写真家の饒舌なタブロー]」 SWITCH 1993年11月号より

以上がウィトキンの自作解説の一部である。
1枚目にポストした作品は、言うまでもないと思うが、ディエゴ・ベラスケス (Diego Velázquez) の年の作品 『ラス・メニーナス (Las Meninas、女官たち、待女たち)』 をモチーフにした作品で、スペイン文科省の依頼を受けて制作されたもの。
10点目の作品はウィトキンが影響を受けたというフランス系アメリカ人の写真家、E. J. べロック (E. J. Bellocq) へのオマージュであろう。

Wikipedia
Joel-Peter Witkin
 Joel-Peter Witkin Gallery
Joel-Peter Witkin - a tribute to a genius
Joel-Peter Witkin - alohasultana - Picasa Web Albums
Photobucket | joel-peter witkin Pictures, joel-peter witkin Images, joel-peter witkin Photos
Lapis Exillis - §436. Joel-Peter Witkin (part I)
Lapis Exillis - §437. Joel-Peter Witkin (part II)
Joel-Peter Witkin, photographer - Bellazon


読み込み中
クリックでキャンセルします
画像が存在しません



読み込み中
クリックでキャンセルします
画像が存在しません

読み込み中
クリックでキャンセルします
画像が存在しません

No comments:

Post a Comment