Friday, May 26, 2006

Mary Ellen Mark - INDIAN CIRCUS -











Mary Ellen Mark (マリー・エレン・マーク)
1940年3月20日、ペンシルベニア州 (Pennsylvania) 南東部にあるフィラデルフィア (Philadelphia) 郊外で生まれた。
フォトジャーナリズム、ポートレイト、広告写真の分野で活動しているアメリカのフォトグラファ。

9歳の時にコダック社製のボックスカメラ、ブラウニーで写真を撮り始めた。
チェルトナム高校 (Cheltenham High School) に通い、チアリーダーのキャプテンとして活躍し、絵画とドローイングの技術を向上に努めた。
高校卒業後はペンシルベニア大学 (University of Pennsylvania) に進学し、1962年に絵画と美術史でBFAを取得した後、同大学のアネンバーグコミュニケーション大学院 (Annenberg School for Communication) に進んで、1964年、フォトジャーナリズムで修士を取得。
卒業後、フルブライト奨学金を得ると、1965年にトルコに渡り、そこを拠点におよそ2年を費やしてイングランド、ドイツ、ギリシャ、イタリア、そしてスペインといった国々を写真撮影して廻った。

1967年にアメリカに戻ると、ニューヨークを拠点に定め、ニューヨーク42番街で繰り広げられる様々な出来事――ベトナム反戦デモ、ウーマンリブ運動、服装倒錯者文化、バーレスク劇場の芸人達たち、結婚ブローカー――やタイムズスクエア、セントラルパークにカメラを向けた。
そこから明らかになるのは、マリー・エレン・マークの社会の主流から外れたものへの志向だろう。
アンドリュー・ロング (Andrew Long) のエッセイによると、マリー・エレン・マークは自身の志向性について、1987年に 「私はギリギリの処にいる人々に興味があります。 社会で最高の機会を得られなかった人々に親近感が湧くのです」、そして 「私が何よりもしたいのは、彼らの存在を認めることです」 と説明したとある。
マリー・エレン・マークがニューヨークを拠点に置きながらも、その華やかな面ではなく、マージナルな存在に眼を向けた頃、そこにはすでにダイアン・アーバス (Diane Arbus) がいて、ギリギリの処にいる人々――つまり、倒錯者や世間から爪弾きにされている人間、極端に走る人々など――を精力的に撮り続けていた時期でもあった。
また1967年は、奇しくも、3月に写真界の新しい世代の写真家ばかりを集めた写真展 「ニュー・ドキメンツ (New Documents)」 展がニューヨーク近代美術館 (Museum of Modern Art, MoMA) で開催された年でもあり、アーバスはあの有名な双子の写真を始め小人や倒錯者やヌーディストなどのポートレイトを30点出品し、その主題から話題をさらっていた (といっても一般からの反応は、写真の一面しか見ようとしないネガティヴなものばかりだったという)。
だから、マリー・エレン・マークはアーバスの作品をどこかで見たり、噂を聞いたり、撮影している現場に遭遇したりしたことがあったかもしれない。
そういった可能性があるからといってマリー・エレン・マークはダイアン・アーバスのフォロワーであると言い切るのは飛躍があるのだが、どうしても志向性や方向性に類似性をみてしまい、安易にその影響下で活動を開始した写真家のように考えてしまう。
と、これ以上は脇道にそれそうなので、この影響云々ということについては、後でまた考えることにしたい。

マリー・エレン・マークは主流から外れたギリギリの処にいる人々に眼を向ける一方で、ハリウッドの映画業界に入り込み、映画のスチール写真の撮影という職を手に入れた。
アーサー・ペン (Arthur Penn) の 『アリスのレストラン (Alice's Restaurant)』、マイク・ニコルズ (Mike Nichols) の 『キャッチ22  (Catch-22)』 と 『愛の狩人 (Carnal Knowledge)』、フランシス・フォード・コッポラ (Francis Ford Coppola) の 『地獄の黙示録 (Apocalypse Now)』 といった映画のスチール写真を撮影し、それ以外にも、1969年に 『LOOK』 誌の依頼でローマに赴きフェデリコ・フェリーニ (Federico Fellini) が 『サテリコン (Satyricon)』 を撮影しているところを取材撮影したりもしている。
『LOOK』 誌とはこの仕事が縁で定期的に仕事をするようになり、同じ頃、『LIFE』 誌からも仕事の以来が舞い込むようになった。

マリー・エレン・マークはプラハの春を逃れてアメリカで映画を撮影していたミロス・フォアマン (Miloš Forman) が1971年に撮った 『パパ/ずれてるゥ! (Taking Off)』 (何だこの邦題は?) という映画に参加したが、1973年、今度は雑誌の依頼でミロス・フォアマンの新作映画の取材をすることになった。
この新作は、ケン・キージー (Kenneth Kesey) の小説 『カッコーの巣の上で (One Flew Over the Cuckoo's Nest)』 を映画化したもので、ジャック・ニコルソン (Jack Nicholson) を主演に撮影はすでに始まっていたが、マリー・エレン・マークが取材に訪れてみると、資金難でスチール写真を撮影するスタッフを雇う余裕も無いという有様だったそうで、マリー・エレン・マークはプロデューサーに報酬のことは考えなくていいから自分を撮影スタッフとして雇うようにと進言して撮影に参加。
以前からメンタルヘルスと精神疾患に興味を持ち、精神病院を撮影したいと思っていたマリー・エレン・マークは、映画撮影の関係で訪れたオレゴン州立病院 (Oregon State Hospital) で病院の責任者と会い、その紹介で危機管理のため女性精神障害者隔離病棟 "Ward 81" に閉じ込められて療養する女性患者と接する機会を得、"Ward 81" を撮影する決意をした。

マリー・エレン・マークは病院の責任者と何度も交渉し、自分と作家のカレン・フォルジャー・ジェーコブス (Karen Folger Jacobs) の二人が病棟に長期滞在して患者たちにインタヴューしたり撮影したりする許可を取り付け、1976年2月から36日間、"Ward 81" 内に滞在して取材を続けた。
"Ward 81" はマリー・エレン・マークにとって今後を決定付ける分岐点となった。
マリー・エレン・マークは、いつ、どこで、誰が、何を、どうしたのかという啓蒙的でルポルタージュ然とした写真を撮ることには興味が無く、女性患者たちに接し、できるだけ理解し、そして自分が感じたままを、長々とした説明的なキャプションも必要ないくらい感情が力強い視覚表現となってカタチに表れるような写真を撮りたかったのだという。

マリー・エレン・マークは自身の長期プロジェクトと生活を成り立たせるため、自分の作品と技術を対価に交換出来る市場を開拓する必要があり、1977年にマグナムフォト社 (Magnum Photos) の一員となった。

マリー・エレン・マークの場合、テーマを見つけるのに時間がかかる方ではないそうなのだが、取り掛かるまでに非常に時間を有することもあれば、取材し終えたルポルタージュが発表されるまでに何年もの時間を必要とすることもあり、撮影対象とのコミュニケーション、あるいは出版社との交渉には大変な労力が必要となる。
例えば、『フォークランド・ロード (Falkland Road)』 というシリーズ。
インドのムンバイにあるフォークランド通りは売春街として知られている。
マリー・エレン・マークがその通りを訪れ、客引きをしている娼婦たちを目にしたのは、1968年のこと。
しかしその時のマリー・エレン・マークにはフォークランド通りをテーマにするに当たって必要なこと二つ――取材をする上での金銭的なバックアップと通りに並ぶ娼婦たちとの接触方法――が欠けており、そのことを棚上げして何度か取材を試みたものの、カメラを向けるたびに罵詈雑言を向けられ、ゴミを投げつけられた。
フォークランド通りを本格的に取材することになるのは、最初に取材の試みた1968年から10年経ってからのことで、1978年10月にようやく取材を開始することが出来たのである。
といっても、一朝一夕に進むものではなく、最初の頃は以前と同じように、罵詈雑言を浴び、ゴミを投げつけられる日々が続いたという。
マリー・エレン・マークは当時を回想して 「まるで冷たい水へと飛び込むかのように、毎日、気を引き締めなければなりませんでした」 と述べている。
そういった日々を続けていくうちに娼婦の中にマリー・エレン・マークに好奇心を示すものが現れ――中には狂っていると思っている者もいたそうなのだが――、二、三人の娼婦と徐々に打ち解けた関係を築き、そこからゆっくりと、急がず友人関係を広げていった。
取材は1979年1月まで続き、カラーで撮影された写真は幾つかの雑誌に発表され、1981年に写真集として出版された。

インドではもう一つ、貧困、栄養失調、結核、ホームレス、ハンセン病、失明、と常に死が付きまうカルカッタのスラム街の中で、奉仕活動を続けていたマザー・テレサを取材したシリーズ "Teresa of the Slums: A Saintly Nun Embraces India’s Poor" が1980年7月号に掲載され、1981年の二度目の取材で撮影された写真と共に 『カルカッタのマザー・テレサの慈善活動 (Mother Teresa's Mission of Charity in Calcutta)』 としてまとめられ、1985年に出版された。

インドで取材した 『フォークランド・ロード』 と 『カルカッタのマザー・テレサの慈善活動』 は、マリー・エレン・マークのマグナム時代を代表するルポルタージュとなった。

マリー・エレン・マークはおおよそ5年間、マグナムの一員として写真を撮り続けた後、マーク・ゴドフリー (Mark Godfrey)、チャールズ・ハーバット (Charles Harbutt)、アビゲイル・ヘイマン (Abigail Heyman)、ジョアン・リフティン (Joan Liftin) と共に独立し、写真の二次販売を管理する Archive Pictures を共同で設立。
後に設立したメンバーのグループが解散しても、この Archive Pictures は1988年まで運営が続いた。
また、映画業界で円滑に仕事を続けていくためにはエージェントが必要であることも理解し、映画の宣伝と広告の手配をしているビサージュ (Visages) のマリッサ・マスランスキー (Marysa Maslansky) のもとで働いた。
1988年、マリー・エレン・マークは自身の写真を管理する the Mary Ellen Mark Library をテリー・バーベロ (Teri Barbero) と設立し、バーベロにその責任をまかせると、その他、仕事をしていく上で必要となる環境を整えていった。


マリー・エレン・マークがインドのサーカス団に興味を持ったのは、最初にインドを訪れた1968年のことで、そこで見た二つの光景――ピンクのチュチュを着た大きなカバがリングの周りを歩く練習をしている場面とチンパンジーが人間の赤ちゃんを乗せた乳母車を押している場面――は強い印象を残したという。
サーカスをテーマに撮影しようと決意するも、取材費の調達が困難でなかなか実現には至らず、マリー・エレン・マークはインドを訪れる度に様々なサーカスを沢山見物し、写真を撮った。
写真を撮ったといっても、他の取材で訪れたインドで、空いた時間を見つけて見物しているサーカスを撮影するのだから、"Ward 81" の取材の時のように、対象を理解し、自分が感じたままの感情が力強く表現されている写真を撮るという訳にはいかない。
本格的に腰を据えて撮影に臨みたい、そう思っていたマリー・エレン・マークに転機が訪れたのは1989年のことで、サーカス団に興味を持った1968年から20年以上の歳月が経過していた。
ジョージ・イーストマン・ハウス (George Eastman House) の国際写真博物館 (International Museum of Photography) とイーストマン・コダック社 (Eastman Kodak) の写真事業部 (Professional Photography Division) から助成金を得られ、マリー・エレン・マークはサーカスの撮影のためインドへ向かうことが出来たのである。
この辺りの経緯についてはマリー・エレン・マーク自身が写真集 『インディアン・サーカス (INDIAN CIRCUS)』 の中で語っているので、そちらを引用しておこう。

 私はインドに恋をした。そして同時にインディアン・サーカスにも・・・・・・。それは1969年、初めてインドを訪れた年のことだった。私は友人とボンベイに滞在し、チャーチ・ゲートのサーカスを観に行った。たちまち私はサーカスの無垢な美しさの虜となった。ピンクのチュチュを着た大きなカバが、口を大きくあけてリングの周りを歩く練習をしていたのを、いまでもはっきりと憶えている。最後に彼 (彼女?) はチュチュに似合いの綿菓子をご褒美にたっぷり貰っていた。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

 その後20年間に、私は写真撮影のために、何度もインドを訪れた。数々の雑誌の特集を担当したし、ボンベイの娼婦を写した 『フォークランド・ロード』 という写真集も出版した。ボンベイやデリーのストリート・パフォーマーを集中的に撮影したり、インド関係では二冊目の写真集 『カルカッタのマザー・テレサの慈善活動』 という本も作った。そうした折々、私はいつも近くにサーカスが来ていないかと探して、見つけると必ず撮影に出かけた。70年代の初めボンベイで、私はジェミニ・サーカスを撮影し、そこで子供のチンパンジーのラジャと調教師に出会った。彼らが互いにあまりに似ていたこと、そしてラジャの創意に富んだ動きに私は感動した。ほかの調教師の2歳になる娘を乗せた乳母車の周りをラジャが自転車に乗って回る出し物もあった。チンパンジーは凶暴な動物である。赤ん坊を近づけられるほど信頼しているからには、彼は特別な存在だったのだろう。
 いつかインドに戻り、まとまった時間をかけてサーカスを撮影しなければならないと思っていた。1989年、ついにこの夢を実行に移すことができたのは、マリアン・フルトンをはじめとするジョージ・イーストマン・ハウスの人たちの励ましと助力、そしてイーストマン・コダック社や国立芸術基金からの助成金のおかげである。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

こういった経緯があり、マリー・エレン・マークは1989年1月から1990年1月までの13ヶ月の内6ヶ月を飛行機や電車やタクシー駆使したインドでのサーカスの取材に費やし、大都市から地方の小さな村まで廻って18のサーカス団を撮影している。
インド国内をあちこち移動するのに二人のアシスタントを雇った。
一人はアメリカ人で、もう一人はインド人。
当時大小様々な規模のサーカス団の内、トップクラスの規模を誇るものは25団体前後あったそうなのだが、2週間から2ヶ月で巡業地を移動する。
サーカス団間の競争が激しく、動物が盗難にあったり、演目や演技が盗まれたりするのを防ぐため、サーカス団は次の巡業地についての情報を公開するのを極端に嫌がり、情報の収集に苦労したという。

急速な変化を遂げる現代インドでは、サーカスは古臭く、それどころか気恥ずかしいものとされ、サーカス団の廃業が続く。多くのサーカス団のオーナーは、私たちのこのプロジェクトが彼らの運命を変える一助となるのではないかと期待して撮影を許可してくれたが、なかには否定的に描かれるのではないかと心配する人もいた。ダヤニタはさまざまなオーナーたちそれぞれに連絡をとり、面会しなければならなかった。彼女は、インディアン・サーカスを記録して、それにふさわしい芸術としての形を与えることが私たちにとって重要であることを彼らに確信させ、信頼を得なければならなかった。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

この様に、おおよその場合、インド人アシスタント、ダヤニン・シンがそれらに粘り強く対処したお陰で、マリー・エレン・マークは限られた時間の中でインド中を移動しているサーカス団の内、18団体も取材できた。
しかし、それでも、どうしても情報の収集も交渉もできないサーカス団というものもあり、あるサーカス団の場合は調査と追跡の果て、次のような顛末を迎えたこともあった。

誇大妄想的なオーナーもいて、ついに居場所さえ教えてくれなかったこともある。ベンガル・サーカスという名のサーカスで、一種独特な雰囲気を持つサーカスだった。どうしても見つけたかったのだが、ベナレスから数マイル先でやっとつかまえたと思ったら、そこには大きな上物が載っていたにちがいない大きな穴が残っているだけだった。一日遅かったのである。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

マリー・エレン・マークが初めて訪れたインドで見たサーカス団で、チンパンジーが人間の赤ちゃんを乗せた乳母車を押している場面に遭遇し、その光景が脳裏に焼き付いたということについては先に述べたが、1989年3月、マリー・エレン・マークはその時のチンパンジーに再会している。
インド南部のケーララ州で公演していたジェミニ・サーカスの撮影に訪れると、そこには、70年代の初めにボンベイで見かけたチンパンジーがまだおり、しかも、そのラジャ (というのがそのチンパンジーの名前) はサーカス団の看板スターとなっていたという。
ラジャという名前はヒンズー語で王を意味するそうなのだが、その名が指し示すようにサーカス団では王様のように扱われており、塵一つない大きな檻には扇風機が設置され、新鮮な果物がいつも並べられていた。

彼は私のことをわかっていたと思いたい。彼は私に檻のほうに来いと手を叩いた。行かないと私に手を振り、そして泣いた。時どき彼は私の唇に優しくキスした。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

というエピソードが 『インディアン・サーカス』 に寄せたエッセイの中で語られているが、大島渚の映画 『マックス、モン・アムール (Max mon amour)』 を髣髴させ、とても美しい。
野生のチンパンジーの平均寿命は15歳から20歳くらいで、飼育下では57歳まで生きたチンパンジーの記録が残ってはいるが、平均寿命は45歳くらいだそうだ。
マリー・エレン・マークが初めてラジャに会った時、ラジャが何歳だったかは不明だが、1989年には若く見積もって25歳から30歳くらいになっていたのではないかと思われ、人間でいうと40代。
中年を迎えたチンパンジーのラジャは胃潰瘍を患っており、注射を打つのに檻を押さえたりするのに九人がかりの大仕事で、落ち着かないラジャに有効だったのは、「象を連れてくるぞ」 とラジャが唯一恐れていた存在を持ち出して脅すことだったという。
マリー・エレン・マークとラジャは接する時間こそ短かったとはいえ、深い絆で結ばれていたらしく、

私がジェミニ・サーカスを去る日、ラジャは舞台で失態を演じ、調教師は私が彼の檻に行くのを嫌がった。彼は私が帰ってしまうことをなんとなく気づいていたのだろう。手を叩いても私が近づかないのを知ると癇癪をおこした。ついに見かねた調教師がサヨナラを言うのを許してくれた。私が手を擦るとラジャは私の眼を見据え、キスをした。彼は私が去った数日後に死んだ。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

という結末を向かえたのだそうだ。
まるで、チンパンジーとの別れから遠く離れた地でチンパンジーの死を知った主人公がそれをモノローグで語る映画のラストみたい、という感想はあまりに陳腐だが、所詮その程度の想像力しか持ち合わせていないので、お許し頂きたい。

1992年、マリー・エレン・マークは夫のマーティン・ベルがナショナル・ジオグラフィックのテレビ探検シリーズのために監督するインドの子供曲芸団をテーマにした映画 『脅威のプラスティック・レディ (The Amazing Plastic Lady)』 のプロデューサーとしてインディアン・サーカスを再訪。
映画は、インドでは 「プラスティック・レディ」 として知られていた10歳の曲芸師の少女ピンキィとその師プラタープ・シンの関係に軸に撮影され、サーカスの魅力を伝える内容というだけではなく、インド文化に根強く残っている堅固な師弟関係の感動的な記録となった。
マリー・エレン・マークは映画の撮影と平行してインタヴューや写真撮影をし、インディアン・サーカスの取材内容をより豊かなものにした。
例えば、10歳の曲芸師の少女ピンキィはインタヴュに

「サーカスにやってきてからのことしか覚えていないの。その前のことは忘れてしまった。私は大人になってもサーカスにいるわ。サーカスの生活は素敵だもの。ここに来ていなかったらひどかったと思う。ここでは誰も私をぶたないもの。大きくなったらサーカスのスーパー・スターになるの。そして旅をするの。世界中、世界中よ」
「私は結婚はしない。子供は欲しくない。結婚は怖いの。夫は私をぶつわ。頭を持って、引っ張るわ。彼は酔っぱらうでしょう。私を虐待するわ」
「私のお母さんはサーカスからずっと離れた村に住んでいるの。帰りたいと思ったことはない。お父さんは私のことをとても可愛がってくれた。お父さんが死んだとき、店を売らなきゃならなかった。店があったら、こんなに貧しくならなかったはずよ。私たちの家の狭さといったら、あなたには想像もできないわ。お父さんが死んだとき、お母さんのサリーをかけたの。」
「一度、村のお母さんに会いにいったことがある。お母さんは映画館の前の空き地に布を広げて、曲芸をしてって言ったの。私はやったけど、いい気はしなかった。人が私のお金を投げるやり方が嫌だった。もしお母さんが来て私を連れていこうとしても、私は行かない。歳をとっても自分のことは自分でするわ」
- ピンキィ
(マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より)

と答えている。
10歳とはとても思えない、自立心を持った受け答えに驚く。

マリー・エレン・マークのオフィシャルサイトに、写真集 『25年 (25 Years)』 にマリアンヌ・フルトン (Marianne Fulton) が寄稿したエッセイの全文があり、そこでマリー・エレン・マークの25年に亘る写真家としてのキャリアが振り返られていて、このエントリを書くに当たって大いに参照させてもらった。
そのエッセイによると、マリー・エレン・マークはインド国内においてもニュースとして注目されることのないインディアン・サーカスにこだわる理由について次のように言ったという。

「私は特定の普遍概念を――みんなが感じるものを表す普遍概念を探そうとしています。ですから、エキゾチックな写真それ自体には興味はありません。私は生々しく無防備な国を再び見るためにインドに行くのです。それが大好きなのです。そこでは物事があらわというか・・・・・・私自身の文化や他の文化に関係があるものとして会いたい。エキゾチックな魔法の儀式とみなしたくはありません・・・・・・私は文化的境界を横断する事柄を探しているのです」
- マリー・エレン・マーク

これをもっと直裁な言い方をすると、『インディアン・サーカス』 のエッセイの冒頭 「私はインドに恋をした。そして同時にインディアン・サーカスにも・・・・・・」 になるのだろう。
更にインディアン・サーカスを観覧した日々、取材した日々への郷愁、あるいはその現状や未来に思いを馳せ、

 私にとってインディアン・サーカスは、過ぎ去ってしまった日々の純粋さの名残であった。それは西欧文明にはもはや見出すことのできない無垢なものである。彼らは現代社会の欲求を方向転換させようと、よりシンプルな昔ながらの生活に執着する。しかし1880年にヨーロッパから輸入されたサーカスは、今日、急速に廃れつつある。60年代半ばにはトップ・クラスの大サーカス団が52あった。いま、その半分も生きながらえてはいない。アメリカのサーカスのように、インディアン・サーカスも瀕死の時を向かえているのか。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

 インディアン・サーカスの撮影は、私の長いキャリアのなかでも、最も美しく、喜びに満ちた特別な時間を与えてくれた仕事のひとつである。それは魔術的な白昼夢の記録でもあり、同時に非常に現実的な生の記憶でもある。皮肉やユーモアに富み、ときに悲しく美しく醜く、愛情深く同時に残酷で、けれども常に人間的である。インディアン・サーカスは、私を視覚的に魅了するすべての物事のメタファーなのである。
- マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より

とエッセイに記している。

作家のジョン・アーヴィング (John Irving) は1990年の冬にジュナガドで公演していたザ・グレート・ロイヤル・サーカスに1週間の密着取材をした (その結果書かれたのが1994年に発表された長編小説『サーカスの息子 (A Son of the Circus)』)。
この取材がマリー・エレン・マークの紹介によるものだったのかどうかは不明だが、アーヴィングはそこでマリー・エレン・マークがサーカス団の撮影をしている現場に居合わせたのだそうだ。
その時のことが 『インディアン・サーカス』 の序文に書かれており、例えば、45ページの檻の中にいるライオンと調教師を撮影した写真には、威嚇するがごとく口を大きく開いたライオンと顔をしかめ仰け反る調教師の対峙した姿がそこには写っているのだが、アーヴィングはその現場を檻の外から気楽に眺めていたのに対し、マリー・エレン・マークは檻の中でその機嫌の良くないライオンの撮影に臨んでいたのだという。
マリー・エレン・マークの撮影現場は万事がこの調子だったそうで、アーヴィングは序文の中で次のように語っている。

 インディアン・サーカスは古きよき昔の生活を反映している。マリー・エレンは一途な率直さとやむにやまれぬ愛情で、そうした生活を写し出す。曲芸師とはいったい何なのか――彼らは子供で、大半は少女だ。もしサーカスに入っていなかったら、多くは物乞いをするか (それとも餓死するか)、あるいは身体を売っていただろう。彼女たちにとってサーカスの生活とは何だろう――毎日、日に三回の舞台がある。深夜にベッドに就き、6時には起きる。しかしこの本には彼女たちが実際に舞台で演じる写真は一点しか含まれていない。彼女たちの生の姿は舞台では見えないからである。かわりにマリー・エレンの写真は誇りっぽい通路やテントの中での日常生活を捉える。それは訓練と休み、そしてさらなる訓練の生活である。
- ジョン・アーヴィング
(マリー・エレン・マーク 『インディアン・サーカス』 より)

サーカス団と一週間寝食を共にしてその生活を観察することが疲れることだったのだが、それと同じように、マリー・エレン・マークの仕事振りを見ることは疲れることだったとアーヴィングは言う。
だから、『インディアン・サーカス』 という写真集は、マリー・エレン・マークのインディアン・サーカスへのひたむきな愛情があればこそ写し得た写真ばかりなのだろう。

マリー・エレン・マークのバイオグラフィはこの後もまだ続くことになるが、それは次回、エントリを立てる機会があればそのときに続きをまとめることにしたい。


さて、私は先にマリー・エレン・マークはダイアン・アーバスの影響下で活動を開始した写真家と捉えてしまうと述べた。
これは私に限ったことではなく、マリー・エレン・マークの作品からダイアン・アーバスを思い浮かべる人は案外多いのではないだろうか。
実際、検索してみるとこの二人を並べて感想を述べたり論じたりしている人が結構いることが分かる。
しかし、このエントリを書くに当たって参考にしたエッセイでマリアンヌ・フルトンは、マリー・エレン・マークがアーバスの作品を好きだと言っているのは事実だし、類似点がないとも言えないのだが、対象へのアプローチの方法が各々違っており、両者を比較することは誤っていると主張。
それを踏まえ、スティーヴ・ハーパー (Steve Harper) が改めてアーバスとの比較の件についてマリー・エレン・マークに見解を求めたところ、次のように答えている。

私としては、アーバスとの比較は止めるべき、としたいところです。
私はダイアン・アーバスの写真が好きです。
アーバスは偉大な写真家であったと思いますが、比較されることは嫌いです。
偉大な写真家からひらめき=刺激 (inspire) は受けたくはありますが、影響=感化 (influence) されたくはありません。
アーバスの写真が好きだからこそ、自分自身の写真をアーバスの写真らしく見させないようにしています。
私の写真は彼女のようなものの見方をしていませんし。
唯一、類似点があるとしたら、共に周縁の人々に魅了されたという点といえるかもしれませんが。
アーバスの写真はとても直接的ですが、アーバス自身は一歩退いて観察者然としているのに対し、私の写真はとても感情的で恐らくそれほど視覚的に直接的ではない、というように、私とアーバスの写真は視覚的に非常に異なっていると思います。
繰り返しますが、アーバスは偉大な写真家だったと思っています。
人々が私たちを比較する場合、双方が女性である、ただそれだけの理由で比較をするのです。
社会の周縁の置かれる人々に引き寄せられる多くの写真家がいました。
ユージーン・リチャードは周縁の人々を撮影しましたが、しかし、ダイアン・アーバスと比較されることは決してありません。
興味深いことです。
- マリー・エレン・マーク

この後リチャード・アヴェドン (Richard Avedon) が引き合いに出され、アーバスとアヴェドンはそれぞれ独立した表現をする写真家と考えられ、比較されることがないのは性別によるもので、女性は女性と比較されて然るべしというのは性差別主義的なのではないかとマリー・エレン・マークは主張し、比較という話題は終わりになる。

パトリシア・ボズワース (Patricia Bosworth) が書いたダイアン・アーバスの伝記 『炎のごとく―写真家ダイアン・アーバス (Diane Arbus: A BIOGRAPHY)』――この伝記はアーバス関係者からは誤った情報による間違った記述が多いと評判が悪いらしいが、個人的には面白いので、文藝春秋から出ている自伝や伝記の中では、ローレン・バコールの自伝 『私一人』 共々是非文庫化して欲しい一冊――を読むと、アーバスがどういった写真家から学び、どういった写真家に共感し、どういった写真家が同世代だったのかが語られているので、主だったところをまとめてみたい。

アーバスが自分のカメラを手に入れた後、最初に写真のことを学んだのは、ドキュメンタリ写真成立黎明期に活躍した写真家として知られるベレニス・アボット (Berenice Abbott) だったが、弟子入りしたとかではなく、講習を受けて撮り方を学ぶというごく初歩的なものだったらしい。

アーバスは1957年頃に自由な時間が持てる時期があり、写真技術の先駆者として有名なニセフォール・ニエプス (Nicéphore Niépce) にまで立ち返って、そこからジュリア・マーガレット・カメロン (Julia Margaret Cameron)、マシュー・ブラディ (Mathew Brady) の写真に親しむようになり、ルイス・ハイン (Lewis Hine) について知るためにわざわざかつてハインが教鞭を執ったエシカル・カルチャー・スクール (Ethical Culture Fieldston School) で学び、ポール・ストランド (Paul Strand) がピクトリアリスムからキュビスムを通過した抽象主義的な写真へ変化していった様を論じた文献を読んだりと、写真を学びなおす作業を行っていたという。

絵画を模倣することから出発した写真の歴史は、その後そこから離れることになるのだが、離れてもなお品行方正なスタイルに固執し続けていたところに、ルイス・フォア (Louis Faurer) やロバート・フランク (Robert Frank) といった写真家たちが登場し、このアーバスと同世代の写真家たちは品行方正な写真の歴史に反逆するかのような実験――型破りなトリミングや焦点のぼけた映像など――を始め、アーバスはそういった同世代の写真家とその実験精神とそのスタイルに共感した。
のみならず、当初、アーバスはロバート・フランクの型破りなフレーミングを模倣していたのだが、後のアーバスは、ロバート・フランクから影響を受けたとは認めることはなかった。

グロテスクなものを醒めた眼で記録するリゼット・モデル (Lisette Model) への共感から、アーバスはニュー・スクール・フォー・ソシアル・リサーチ (New School for Social Research) で教鞭を執っていたリゼット・モデルの生徒となり、後に師弟関係的というか、親子関係的というか、とにかく深い絆へと発展していった。

1964年頃、ウォーカー・エヴァンス (Walker Evans) にニューヨーク近代美術館 (Museum of Modern Art, MoMA) のキュレーター、ジョン・シャーコフスキー (John Szarkowski) を紹介され、親しくなると、アウグスト・ザンダー (August Sander) のポートレイトを研究すべきだとアドバイスされた。
アウグスト・ザンダーを研究することで隠されたものを暴き出すその作品とカメラの力というものを改めて意識させられたアーバスは、「かぎりなく魅惑的な視覚の謎」 に更に深く踏み込んで行くことになった。
伊藤俊治は 『写真都市』 の中でアーバスはザンダーの正当な後継者であり、E. J. べロック (E. J. Bellocq) のまなざしの系譜に連なっている写真家であると述べている。

べロックといえば、アーバスは、「禁じられたもの (the forbidden)」 や 「おぞましい題材 (evil subject matter)」 にカメラを向けた写真家ではあったが、ダイアン・アーバスをもって嚆矢とすという存在だった訳ではなく、E. J. べロックやブラッサイ (Brassai) やウィージー (Weegee) といった先駆者たちがその領域で大きな仕事を残していて、そういった写真家たちの系譜のなかにアーバスはいるともいえるだろう。

以上、『炎のごとく―写真家ダイアン・アーバス』 に登場する写真家の名前は他にもあるが、とりあえずこれくらいにしておく。
ここに抜き出した写真家でアーバスと比較されることが多いのは、ロバート・フランク、リゼット・モデル、アウグスト・ザンダー、E. J. べロック、ウィージー辺りだろうか。
とすると、女性はリゼット・モデルのみということになる。
ここにアーバス以降の写真家を加えるとしたら、例えば、シンディ・シャーマン (Cindy Sherman)、ナン・ゴールディン (Nan Goldin) やラリー・クラーク (Larry Clark)、そしてマリー・エレン・マークといった名前を挙げることが出来るだろうか (言うまでも無いが、ラリー・クラーク以外は女性)。
こうして女性写真家を多く加えたとしても、アーバスの場合、女性ばかりと比較されている、などということにはならないのだ。
マリー・エレン・マークは、ダイアン・アーバスとの作品の比較をジェンダーの問題と述べているのだが、果たしてそうなのだろうか?
その発言以前に自身の表現がアーバス的になるのを意識的に避けていると述べており、そこに 「影響の不安 (the anxiety of influence)」 (©ハロルド・ブルーム (Harold Bloom)) をみることも出来るのではないか。

そういえば、荒木経惟と伊藤俊治のダイアン・アーバスを巡る対談の中で、ナン・ゴールディンが二度話題になるのだが、それ以外の女性写真家でふと名前が挙がったのがマリー・エレン・マークだった。


 『インディアン・サーカス (INDIAN CIRCUS)』 から次の10点をポスト。

"Contortionist with Sweety the Puppy. Raj Kamal Circus, Upleta" (1989)
"Hippopotamus and Performer. Great Rayman Circus, Madras" (1989)
"Jyotsana Riding on Vahini the Elephant. Amar Circus, Delhi" (1989)
"Acrobat Sleeping, Famous Circus, Calcutta, India" (1989)
"Acrobats Rehearsing Their Act at Great Golden Circus. Ahmedabad" (1989)
"Shyamala Riding Her Horse, Badal, at Great Rayman Circus. Madras" (1989)
"Pinky, Sunita, and, Ratna. Great Royal Circus, Gujarat" (1989)
"Ratna Practicing at Great Royal Circus. Junagadh" (1990)
"Pinky and Shiva Ji with Laxmi in the Background, Great Royal Circus, Junagadh, India" (1990)
"Raja as a Baby. Gemini Circus, Bombay" (1974)

の10点。


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Fotosidan träffar Mary Ellen Mark - Fotosidan
Falkland Road Gallery - The Digital Journalist
Mary Ellen Mark (American), 1941 - Featured artist works, exhibitions and biography fromFahey/Klein Gallery
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