Friday, May 26, 2006

Post-mortem photography











まず最初に "Post-mortem photography" って何?というところから。
直訳すると 「死後写真」 となり、他にも "memorial portraiture"、"memento mori portraits"、"mourning portraits" と呼ばれることがある。
そう、このエントリに貼られた写真で眠るように横たわっている少女たちは、皆、死者なのだ。
写真には横たわった少女の傍に立つ子供が写っているものもあるが、それらは死せる少女の家族ということになる。

女優たちの殺人現場を撮影した伊島薫の写真集 『死体のある20の風景』 は女優が死体を演じた、つまり模擬死体となって、様々な場所で撮影されるという、面白くも美しいコンセプトの写真集だったが、ここにポストした写真に写った少女たちは、その 『死体のある20の風景』 の女優たちのように死体を演じている訳ではないし、もちろん、レトロ趣味で撮影された現在の写真などでもない。
百年から百数十年ほど前に、ヨーロッパを中心にアメリカや中南米の一部の国で数多く撮影された写真なのである。
寝ている我が子を撮影したかに見える写真が、実は、亡くなってしまった我が子を撮影したものであるということに驚く方がいるかもしれない。
そう、これらの写真は、死者を撮影しているというのに、どう見たって念入りに演出された写真なのだ。
ここでは、こういった写真が何故誕生したのか、その文化的・社会的・時代的背景をサクッとまとめてみることにしよう。


「死後写真」 がいつ誕生したのか、その正確な日付は定かではないが、フランス人画家ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール (Louis Jacques Mandé Daguerre) の手による、ダゲレオタイプ (daguerréotype) と呼ばれることになる写真技術が発明されてまもなくの頃には、すでに誕生していたという。
誕生した日付が分からないように、誰が始めたものなのかは不明で、しかし、そういった来歴の不確かさとは無関係に、ヨーロッパでは大流行し、19世紀末期にピークを向かえると、その流行は北米や南米に拡がり、20世紀になると徐々に姿を消していったのである。

と、この辺りの流れはもう少し後で触れるとして、まずは文化的背景の歴史から。

"Post-mortem photography" の "Post-mortem" は、やや特殊な状況において英語圏で日常で使用される言葉であり、元々はラテン語で、ラテン語の箴言 "Ede, bibe, lude, post mortem nulla voluptas (食って、飲んで、遊べ、死後に快楽などないのだから)" からも分かる通り、「死後」 という意味なのだが、それが英語に転じて、「検死(解剖)」、あるいは 「(失敗の)事後検討」、「(失敗の)反省会」 という名詞、「死後の」、「検死の」、あるいは 「事後の」 という形容詞として使用されている。

では、"Post-mortem photography" の別の呼び方 "memento mori portraits" の "memento mori" は何を意味はというと――。
"memento mori" をカタカナ表記すると 「メメント・モリ」 であり、この言葉を日常生活の中で――小説や漫画やアニメなどに接する機会が多い人ほど――耳にする (あるいは目にする) 機会があるのではなだろうか。
「メメント・モリ」 とは、ラテン語の 「いつの日か己にも死が訪れることを忘れるな」 を意味する箴言や、2世紀にカルタゴで活動した神学者テルトゥリアヌス (Tertullianus) が 『護教論 (Apologeticus)』 に記した "Respice post te! Hominem te esse memento! Memento mori! (振り返るべし!汝人であることを忘るるなかれ!死の訪れを忘るるなかれ!)" という一節に登場する言葉で、直訳すると 「死を想え (死を忘れるな)」 となる。
「メメント・モリ」 という言葉が日本で広まったのは、藤原新也がインドやチベットを放浪した時に撮影した写真に生と死を巡る言葉が添えた著書 『メメント・モリ』 を1983年に出版し、それが大きな話題になってからのことだろう。
あるいは、ヨハン・ホイジンガ (Johan Huizinga) の 『中世の秋 (Herfsttij der Middeleeuwen)』 の11章目に当たる 「Ⅺ 死のイメージ」 の冒頭部、

 十五世紀という時代におけるほど、人びとの心に死の思想が重くのしかぶさり、強烈な印象を与え続けた時代はなかった。 「死を想え (メメント・モリ)」 の叫びが、生のあらゆる局面に、とぎれることなくひびきわたっていた。ドニ・ル・シャルトルーが、その著 『貴族生活指導の書』 のなかで、貴族たちに説きすすめていうには、「ベッドに横になるとき、想うがよい、いまこうしてベッドに横たわっているように、じきにこのからだは、他人の手で、墓のなかに横たえられることになるのだと」
 もちろん、キリスト教会は、すでにはやくから、たえず死を想えと、熱心に教えてはいた。けれども、初期中世の教会関係の論述は、すでにこの世を捨てた人びとの手にしかわたらなかったのである。托鉢修道会の成立以後、ようやく民衆説教が盛んになり、それにつれて、死を想えとの勧めの声もしだいに高まり、ついには、あたりを圧する大合唱にまでふくれあがって、おもおもしいフーガのうねりのうちに、とどろきわたるようになったのである。
 中世末期になると、説教師の言葉に加え、この思想の新しい表現形態が登場した。すなわち、木版画であって、これがしだいに社会各層に普及したのである。だがこのふたつの大衆向け表現手段、説教と版画とは、人びとの心に直接はたらきかける、単純素朴きわまりないひとつのイメージにおいてのみ、鋭くはげしく、この死の思想を表現しえたのである。
- ヨハン・ホイジンガ 『中世の秋』

を読んで初めて 「死を想え (メメント・モリ)」 という言葉に触れたという方も結構いるのかもしれない。
Wikipedia によると、古代においては 「メメント・モリ」 は 「(食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから) 今を楽しめ」 という趣旨だったものが、キリスト教圏で別の――あるいは 「逆の」 と言っても間違いではない――意味に変化し、上に引用した 『中世の秋』 の文脈で使用されるようになったのだという。

「メメント・モリ」 という思想、その死のイメージの果たした役割は、無常の観念を表現することで、中世末期の人々は、視野狭窄に陥ったかのごとく、その無常観からしか死を考えることが出来なかったようなのだ、とホイジンガは 『中世の秋』 のなかで述べている。
その 「メメント・モリ」 を伝播する新しい表現形態として木版画が挙げられているが、それがすなわち、「死の舞踏 (La Danse Macabre)」 と呼ばれる木版画で、そこには中世の人々の恐怖心を刺激した死のイメージが表現されている。
ペストの流行や長引く百年戦争の影響などを背景とした、死への恐怖と生への執着に取り憑かれた民衆の突発的自然発生的の半狂乱の舞踏――それは一種の集団ヒステリーでフランスを中心に発生し、「死の舞踏」 は、最初、その模様を木版画で表現したものだった。
その 「死の舞踏」 をキリスト教側が取り込んで、「メメント・モリ」 の想念に合致させるように目論み、時間の経過とともに――「死の舞踏」 の発生からそれをモチーフとした表現の誕生までにおおよそ百年かかっており、そこに付加した宗教的意味合いが浸透するのにもやはり同じくらいの時間がかかっているのだが――その目論見通りに 「メメント・モリ」 という思想を伝播する表現形態へと変質していったのである。

「メメント・モリ」 の表現形態は木版画以外の表現形態をとることもあった。
例えば墓石。
中世の世俗を否定した人々、つまりキリスト教会の修道士などは現世蔑視を説く論説に塵芥や蛆虫といったおぞましい表現を織り交ぜて肉体腐敗の恐怖を人々の心に植え付けていったが、十五世紀になると富裕階級の間で、その恐怖を視覚的に表現した墓石――硬直した身体が腐敗して剥き出しになった腹部に蛆虫が湧いているという陰惨といってもよい表現で装飾された――が流行し、十六世紀の後半まで続いた。

こういった 「メメント・モリ」 のテーマと隣接/重複しているものとして、静物画に寓意を持ち込んだ 「ヴァニタス (vanitas)」 がある。
ラテン語で 「空虚」 や 「虚しさ」 を意味し、人生や権力や富の虚しさや美に透けて見える虚栄や偽りを頭蓋骨や朽ちた果物やシャボン玉や地球儀や蝋燭や宝石や硬貨、あるいは鏡などに喩えて表現させた。

と、「メメント・モリ」 の歴史を軽くまとめてみたが、"memento mori portraits" と呼ばれることもある 「死後写真 (ポスト=モーテム・フォトグラフィ)」 もそういった流れのなかにあるといっていい。
違っているのは、絵画や彫刻と違って写真が複製できるメディアであるという点 (ダゲレオタイプの時点ではまだ複製の出来ないメディアだったのだが) と、中世においては死への恐怖と生への執着に取り憑かれた人々の無常観を表現するものであった 「メメント・モリ」 が、"memento mori portraits" においては、死者を忘却することを恐れ、最後の姿を記憶するための記録となっている点だろう。

続いて、「死後写真」 が誕生するに至った時代背景と社会背景について簡単にまとめてみたい。
肖像画は元々王侯貴族のものであり、富や名声や権力を誇示するために描かれていた。
産業革命を背景に中産階級が増大すると肖像画のニーズも増大していき、19世紀頃にもなると肖像画の世俗化がかなり進行しており、ダゲレオタイプの登場は肖像画が欲しいという中産階級のニーズに旨く合致し、瞬く間に市場が形成され、肖像画をその特権的な地位から引き摺り下ろしたのである。
画家を雇ってその姿を描いてもらうのにかかる費用とダゲレオタイプでその姿を撮影してもらうのにかかる費用では、とちらがより安価であったのか?ということは調べがつかなかったが、油彩で描かなければならない肖像画は対象者を拘束する時間が長く、完成に至るまでにも時間を要し、肖像画が欲しいというニーズの増大に対応するには自ずと限界があったところに、撮影するだけなら数分、セッティング等の時間を含めても対象者を拘束するのが30分から1時間くらいで済むダゲレオタイプの登場は、そのニーズの増大に応えるに足るものであったといえ、それが肖像写真の需要の拡大の大きな要因だったと推測することができる。
写真の需要が増大に合わせ、撮影技術も複製の出来ないメディアだったダゲレオタイプから複製可能なカロタイプへと技術革新が進んだ。
需要の増大、技術の革新とくれば、多様化という面も当然出てくるのだが、その一つが肖像写真から分岐した (と断言してよいのだろうか?) 「死後写真」 だったのである。
ビクトリア朝期のイギリスでは乳児死亡率が非常に高かったことは知られているが、その死亡率の高さが 「死後写真」 流行の一因であり、これは第二帝政期から第三共和制期への移り変わりの時代だったフランスでも事情はそう変わらないと思われ、ということは、それ以外のヨーロッパでも同様のことがいえるのではないだろうか。
こうして、亡くなってしまった愛児の姿を、あるいはその思い出を記録として残しておきたいという思い、つまり記憶を記録として所有したいという中産階級の欲望は、ダゲレオタイプを活用することで 「死後写真」 を生み出し、ヨーロッパで流行するに至った。

ダゲレオタイプは発明された当時、露光時間に数分から数十分かかっていたが、それも間もなく数秒から数十秒に短縮された。
とはいえ、撮影時の露光時間中、撮影対象は身じろぎひとつしてはならなかったということに変わりはなく、被写体はその間緊張を強いられるものだったためか、当時の肖像写真からはピリピリと緊張したものが感じられるが、動かぬ死者を撮影する 「死後写真」 の場合、静止時間を気にしなくてもよく、文字通り安らかな眠りについたかのように穏やかな姿で写真に納まっている。
実際、「死後写真」 は、初期、被写体の顔のクローズアップかその全身像のみを撮影するだけで、対象が収められた棺が写ることは稀だったそうで、眠る子を撮影したかのように装われたというが、そのうち、ベッドで寝ている姿やソファで休息している姿や乳母車に乗っている姿など、日常生活の一コマをさりげなく撮影したという演出がされるようになったり、棺に納められた姿を撮影するにしてもその回りを花や植物などで美しく飾り立てたり、家族や親戚一同との集合写真にしたりとバリエーションが豊富になっていった。
「死後写真」 の流行はヨーロッパに止まらず、アメリカやメキシコ、そしてアルゼンチンにも飛び火。
ヨーロッパでの流行のピークは19世紀末期だが、アメリカ、メキシコ、アルゼンチンでは19世紀末期から20世紀を跨ぐかたちで流行した後、徐々に下火となっていった。

ヨーロッパにおける文化的背景についてもう一点。
19世紀後期、小説や詩の中で女性の病弱で衰弱した姿やその衰弱の果てにある死が様々な形で語られ、その、女性の儚げな姿や死を崇高で美しいものとして賛美した。
これは何も文学作品のなかだけでの流行ではなく、絵画にも痩せ細った青白い女性の姿や死して横たわる女性の姿が多く描かれたのである。
そういった女性像を作り出した作家や詩人、そして画家はほとんどが男性で、彼らの手による一見女性を賛美したかのように見えなくもない作品を裏返すと、そこにはミソジニー (女性嫌悪) の闇が深く淀んでいるのだ、とブラム・ダイクストラ (Bram Dijkstra) は当時の資料を渉猟して 『倒錯の偶像―世紀末幻想としての女性悪 (Idols of Perversity: Fantasies of Feminine Evil in Fin-de-siècle Culture)』 の第Ⅱ章で分析してみせた。
当時の子供の無垢の称揚にも同様の構造がある。
「死後写真」 の流行は、肖像画の需要、写真の登場、「メメント・モリ」 思想だけでなく、当時のそういった文化面での流行が背景としてあったとみるべきだろう。


今回、このエントリにポストしたイメージは、"Post-mortem photography" コレクターとして世界的に有名なポール・フレッカー (Paul Frecker) のサイトで公開しているものの中からチョイスした。
以下に、そのポール・フレッカーの経歴をまとめておく。

Paul Frecker (ポール・フレッカー)
英国のヴィクトリア朝時代の写真のコレクター兼ディーラー。

ポール・フレッカーは1980年代に 『FACE』 や 『i-D』 といった雑誌で、1990年代にはミュージックヴィデオやCMの世界にまで活動の範囲を広げて活動していたファッション・スタイリストだった。
フレッカーは2001年にアンティークショップで名刺サイズの写真をまとめたアルバムに出合い、蒐集熱に取り付かれ、スタイリストを止めてしまったそうで、その後ヴィクトリア朝時代の写真のコレクター兼ディーラーとなり、2003年に現在のウェブサイトを開設し、自身のコレクションの一部を公開、販売も行っている。

フレッカーのサイトではライブラリーで3つのコレクション・シリーズが公開されているのだが、このブログ的に最も関心を寄せるのは "post-mortem" というシリーズになるだろう。


Wikipedia - Post-mortem photography
Wikipedia - メメント・モリ
Paul Frecker - Nineteenth Century Photography
PAUL FRECKER « SPHERES :: a world behind curtains

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