Wednesday, May 24, 2006

Rudolf Koppitz






Rudolf Koppitz (ルドルフ・コピッツ)
1884年1月4日に年現在はチェコのモラヴィア・スレスコ州 (Moravskoslezský kraj) のブルンタール (Bruntál) となっている――かつてはフロイデンタール (Freudenthal) と呼ばれ、現在もドイツではそう呼ばれている――町の近くにある Schreiberseifen という村で生まれた。
1936年7月8日、オーストリア北西部の町、ペルヒトルツドルフ (Perchtoldsdorf) で亡くなった。
チェコスロヴァキアの写真家 (ウィーンに拠点を置いて活動したのでウィーンの写真家、オーストリアの写真家とされることもしばしばある)。

ストレートフォトグラフィとモダニズム・ムーブメントの影響を受けながらも、ピクトリアリスムの写真スタイルを撮り続けた写真分離派 (Photo-Secession、フォト=セセッション) として知られ、世界大戦間のウィーンで活躍した。

1897年に Robert Rotter の下で写真技術を習うことからキャリアをスタートさせた。
しばらくの間小さな商業スタジオと契約し写真家として働いていたが、1912年、改めて写真を学ぶために仕事を辞め、ウィーンのグラフィックアート大学 (Graphische Lehr- und Versuchsanstalt、現在のウィーン州立グラフィックアート大学 (Höhere Graphische Bundes-Lehr- und Versuchsanstalt)) へ進んだ。
ルドルフ・コピッツの初期の作品は、大学で指導を受けた象徴主義の写真家であったKarel Novákの影響と、ウィーン分離派からの影響が特徴となっている。

第一次世界大戦中で大学での生活が中断され、と航空偵察の写真家として従軍。
任務外の時間に戦場における兵士の様子を写真に記録し、記述的な経験を積んでいく。
戦後大学に戻って教鞭を執り、その傍らで "In the Bosom of Nature" として知られるセルフヌードの撮影に没頭する。

1925年頃、ルドルフ・コピッツはマスターピースとなる "Bewegungsstudie (Motion Study)" を撮影。
この作品は、ウィーン国立歌劇場 (Wiener Staatsoper, Vienna State Opera) でダンサー達を撮影したもので、黒衣に身を包んだ3人の女性の前で裸で爪先立ち体を反らせたポーズをとっているのはロシアのバレエダンサー、Claudia Issatschenko。
ユーゲントシュティールの装飾的で象徴主義的な側面の伝統に沿った作品となっている。

ポストしたのは、

"Bewegungsstudie (Motion Study)" (c.1925)
"Composition" (c.1925)
"Willy Zielke" (1933)
"La ligne" (1933)
"Mädchen" (1923)

の5点。
"Bewegungsstudie (Motion Study)" を最初に見たときに思い出したのはスイスの画家フェルディナンド・ホドラー (Ferdinand Hodler) のことだった。
Wikipedia を読むと、この作品に関して、グスタフ・クリムト (Gustav Klimt) とアルフォンス・ミュシャ (Alphonse Mucha) と共にフェルディナンド・ホドラーを参照して下さいとあるので、間違った印象でなかったようだ。
ホドラーは 「死」 をテーマにした作品を多く描いたが、コピッツの "Bewegungsstudie" からも死臭が漂ってくるようで、何処となく三人の魔女が命を狩る若い女性の品定めをしているといった風に見え、同じ頃に撮影された "Composition" からも同様のものを感じる。
とすれば、4枚目の "La ligne" は表現主義的な 「死」 のイメージといったところだろうか。

Wikipedia
Rudolf Koppitz (1884-1936) | Galerie du Cabestan

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