Saturday, July 1, 2006

Fernand Léger











Fernand Léger (フェルナン・レジェ)
1881年2月4日にフランス北西部、ノルマンディー (Normandie, Normandy, Nourmaundie) のオルヌ県 (Orne) 中北部の町アルジャンタン (Argentan) で生まれた。
キュビスムの画家として活躍し、後に版画、陶器、舞台装置、映画といった分野にまで活動の幅を広げた。

畜産業を営む家庭に生まれた。
1885年、父親が死去。
1897年から1899年にかけ、カルヴァドス県の県庁所在地カーン (Caen) にあった建築家のスタジオで修業を積んだ。
1900年、19歳になったレジェはパリに上京し、建築事務所の建築製図工として働き始めた。
1902年から1903年までの兵役期間を経てベルサイユにある装飾美術学校で絵を学び始め、次いでアカデミー・ジュリアン (Académie Julian) に通った。
この頃のレジェは印象派の影響の濃い絵を描いていたという。
ダニエル=ヘンリー・カーンワイラー (Daniel-Henry Kahnweiler) に宛てた手紙の中でレジェは美術学校に通っていた頃のことを次のように振り返っている。

美術学校には二一歳から二三歳まで、つまり一九〇〇年から一九〇二年までいました。このころは印象主義の影響が最も大きかった時で、たいていのフランスの画家と同じく、何ら私自身のものをつかみ得ないままに右往左往していました。そこへセザンヌが現れ、私に確かな目標を授けてくれました。 ・・・・・・しばらくは苦しい仕事が続きましたが、その間私はおぼろながら印象主義はひとつの終結ではあっても始まりではないことを、 (もっとも当時の私はまだその影響下にありましたが)、そしてセザンヌが出発点であることを感じ取っていました。自分の行く方もよくわからぬままに、ともかくそう感じていました。
- フェルナン・レジェ
(D-H・カーンワイラー 『キュビスムへの道 (Der Weg zum Kubismus)』 より)

読み比べると判るが、 Wikipedia を含めたネットで公開されている情報やいくつかの書籍を元にまとめたこのブログの記述と若干の違いがある。
カーンワイラーはドイツ出身の画商で、キュビスムの擁護者で、キュビストたちの作品を一手に引き受けた。
『キュビスムへの道』 は1920年にドイツのミュンヘンにある出版社から出版され、内容を読む限りでは、その後増補され、引用したレジェの手紙もその時加えられたレジェの章からのもの。

1904年、建築事務所で職を得、写真のレタッチを担当。
パリは19世紀後半から20世紀初頭にかけて著しい発展を遂げていた頃で、ノルマンディーの田舎町からやって来たレジェが、急速に移り変わる都市環境の中で生活をどのように受け止めていたのかはわからないのだが、例えば、後にマシンエイジの花形デザイナーとなるレジェより12歳年下のレイモンド・ローウィ (Raymond Loewy) は、

一九〇五年前後の少年の生活は、興奮の連続だった。電燈や電話や自動車や飛行機や活動写真や無線電信の誕生を、次から次へと矢継ぎ早に見せられた幼い男の子のことを想像することができますか?
- レイモンド・ローウィ 『口紅から機関車まで』 より

と、著書 『口紅から機関車まで (Never Leave Well Enough Alone)』 の中で、驚きをもってその当時のことを振り返っている (ローウィがインダストリアル・デザイナーとして活躍したのはアメリカだが、生まれ育ったのはフランスのバリである)。
田舎者のレジェが上京してパリで暮らし始めたのは青年になってからのことで、刻々と変化していく都市環境について、まだ少年だったローウィと同様の受け止め方をしていたと考えるのはあまりに都合がよすぎるので不明としておくほかないが、こと機械に限れば、魅せられていると自覚するのはもう少し後の、戦争という非日常的な時間と空間と状況の中に置かれてからのことで、それ以後、レジェの興味はそこから更に都市へと移っていくことになるのだが、その変遷についてはおいおい語っていくことになるだろう。

1907年9月、パリのサロン・ドートンヌ (Salon d'Automne) において前年の10月22日に亡くなったポール・セザンヌ (Paul Cézanne) の回顧展が開催された。
レジェはこの回顧展で見たセザンヌに大きな影響を受け、画家として立っていくきっかけとなったという。
1907年は美術史において重要な意味を持つ年で、というのも、パブロ・ピカソ (Pablo Picasso) が1906年に制作に着手した 《アヴィニョンの娘たち (Les Demoiselles d'Avignon)》 が完成し (実際には未完成だったが、現在知られている状態にほぼ仕上がって、アトリエに放置されていた)、ジョルジュ・ブラック (Georges Braque) はアポリネールに紹介されたピカソのアトリエでこの作品に出合ったのがこの年だからであり、これがキュビスム (Cubisme, Cubism) の発端となって、1908/1909年からピカソとブラックによるキュビスムの時代が始まるのだが、ともかく、1907年のレジェはセザンヌの影響下、自分のスタイルを模索していた。

1908年頃になると、レジェと同じく表現活動で身を立てようとする青年たちとの交流も盛んになり、その中にはアメデオ・モディリアーニ (Amedeo Modigliani)、アンリ・ローレンス (Henri Laurens)、アレクサンダー・アーキペンコ (Александр Порфирьевич Архипенко, Alexander Archipenko) といった画家や彫刻家がいた。
1909年には、彼らが出入りしていたモンパルナスの共同住宅兼アトリエ 「ラ・リュッシュ (蜂の巣 "la Ruche")」 に転がり込み、ボヘミアン生活をスタートさせ、三人の詩人 (ブレーズ・サンドラール (Blaise Cendrars)、マックス・ジャコブ (Max Jacob)、ギヨーム・アポリネール (Guillaume Apollinaire)) と画家のロベール・ドローネー (Robert Delaunay) と知り合う。
アポリネールは 『立体派の画家たち 美学的考察 (Méditations esthétiques. Les Peintres cubistes)』 の中で出会った頃のレジェを回想して次のように述べている。

わたしは、美術界に登場したばかりのころのレジェの試作を、いく枚か見たことがある。
 夕べの水浴場、水平な海、アンリ・マチスだけが到達した難しい構図のなかのように、すでに点在しているいくつかの頭。
- ギヨーム・アポリネール 『立体派の画家たち 美学的考察』 より

レジェが 「ラ・リュッシュ」 でボヘミアンな生活を始めたのと同じ頃、パリ郊外のピュトーにもアトリエを構え活動し始めた若手の芸術家たちにジャック・ヴィヨン (Jacques Villon)、レイモン・デュシャン=ヴィヨン (Raymond Duchamp-Villon)、フランティセック・クプカ (Frantisek Kupka) らがいる。
また、当時の貧乏画家の共同アトリエとしては、ピカソを始め、キース・ヴァン・ドンゲン (Kees Van Dongen)、フアン・グリス (Juan Gris) といった画家たち、詩人のマックス・ジャコブ (Max Jacob)、作家のピエール マッコルラン (Pierre Mac Orlan) らが共同生活を送っていたモンマルトルの 「洗濯船 (Le Bateau-Lavoir)」 が有名。

レジェが 「ラ・リュッシュ」 での生活を始めてしばらくした頃、マルク・シャガール (Marc Chagall) やジャック・リプシッツ (Jacques Lipchitz) もやって来た。
シャガールのフワフワした回想録 『わが回想』 は、ベル・エポック期のパリでエコール・ド・パリの画家として活動していた頃のことにも少しページが割かれているのだが、 「ラ・リュッシュ」 での生活に触れた辺りに、毎週金曜日にイタリア出身の批評家リッチョット・カニュード (Ricciotto Canudo) の自宅がサロンとなり気のあう仲間が集ったという記述があって、その中に一度だけレジェの名前が出てくる。
といっても、ただ名前が出てくるだけなのでどういう付き合いがあったのかまでは分からないのだが。

ちなみにリッチョット・カニュードは映画理論家で、映画のことを第七芸術と呼ぶきっかけとなったマニフェスト 『第七芸術宣言 "La Naissance d'un sixième art - Essai sur le cinématographe"』 を1911年に発表し、このマニフェストの中で映画を空間芸術 (建築、彫刻、絵画) と時間芸術 (音楽、詩、後に舞踊を追加) を統合する新しい芸術と位置づけた人物 ("La Naissance d'un sixième art" は直訳すると 「第六芸術の誕生」 となるが、後に時間芸術に舞踏が追加されて音楽、詩、舞踊の三つになったため、邦題はその修正を踏まえた 『第七芸術宣言』 となっている)。

また、この頃、アンリ・ルソー (Henri Rousseau) と知り合いになり、感銘を受けている。

1908年10月、ジョルジュ・ブラックはサロン・ドートンヌの審査に7点の作品を出し5点の展示を拒否されるという出来事があった。
その際、審査員の一人のアンリ・マティス (Henri Matisse) が 《エスタックの家 (Maisons à l'Estaque)》 を 「小さなキューブ」 と揶揄。
怒りを覚えたブラックは、11月09日から11月28日にかけカーンワイラー画廊 (Galerie Kahnweiler) で最初の個展を開くに至った。
この個展において、後に 「セザンヌ的キュビスム」 期の作品と呼ばれることになる 《エスタックの家》 をはじめとする7点を公開。
カタログの序文をアポリネールが書き、ブラックの作品の異質さとが相俟って、一部で大きな反響と反発を呼び、展示会を訪れた美術批評家のルイ・ヴォークセル (Louis Vauxcelles) が週間新聞 『ジル・ブラス (Gil Blas)』 に寄せた記事において 「ブラックは一切を立方体(キューブ)に還元する」 と書いたこともあってセンセーショナルな話題となった。
この事件は、若い芸術家たちの間でも当然話題となっていたが、1909年春のアンデパンダン展でブラックの作品2点が改めて展示されたことで、改めて話題となった。
ピカソとブラックは1909年の冬頃からキュビズムの表現方法の追究を共同で始めた――これが所謂分析的キュビスムの時代の幕を開けとなり、若き芸術家たちは大きな刺激と影響を受けて、キュビスム的作品を制作することを試み、運動へと発展していくことになる。

と、これだけでは少し分かり辛いので、キュビスムが運動へと発展していく流れをもう少し補足。
画壇においてある程度の地位を築きつつあったピカソは、友人のアンリ・マティスが 《生きる喜び (Le Bonheur de vivre)》 等でフォーヴィスムの旗手としての地位を築いたことに対抗し、別の絵画の新たな可能性を模索する中、仮面を始めとするアフリカ彫刻 (黒人彫刻) や古代イベリア彫刻や古代ギリシャ芸術や古代エジプト芸術に触れ、そこから遠近法の支配する世界からの脱却を目指したセザンヌらの試みの先に進む糸口を手に入れ、苦闘しながら 《アヴィニョンの娘たち》 を描いていた。
一方、その頃のブラックはマティスらのフォーヴィズムからの影響とセザンヌからの影響に引き裂かれながら絵画の新たな可能性について模索していたが、アポリネールの紹介でピカソのアトリエを訪問し、《アヴィニョンの娘たち》 を目にして最初はショックを受け、苛立ち混乱する。
これは何もブラックだけのものではなく、ピカソのこの作品を目にした者は例外なくショックを受けたのだという。
ブラックが他の者と違っていたのは、ショックを受けた段階で判断停止してしまったりせず、描いたピカソ自身さえはっきりと自覚していなかった絵画の新たな可能性をそこに見出したという点で、ピカソが孤独に行っていた探究は、この出会いで突然、新たな道を切り開くことになる。
その頃の、未だ何をも成し得ず燻っていた若い芸術家の多くは何をしていたかというと、レジェやブラック同様、1907年にサロン・ドートンヌで開催されたセザンヌ回顧展から大なり小なり刺激を受け、そこから自分たちが何ができるのかを各自が模索していた時期で、芸術家同士、横のつながりがあったこともあって、このセザンヌの先へという意識 (と反印象派という意識) は芸術家達の間である程度共有されていたのではないかと思われる。
勿論、こうした横のつながりにピカソとブラックも含まれていないではなかったのだが、ピカソの行っていることを理解できたものはピカソ周辺にはおらず、アポリネールの紹介でアトリエにやって来たブラックが初めて――直ちにという訳ではなかったのだが――ピカソの行っている試行錯誤が一体何であるのかということを理解することが出来たのであり、こういってよければ、ブラックが 《アヴィニョンの娘たち》 を翻訳して作品を描くことで初めてそれが何であったのかが一部の人々に伝わった、あるいは、ブラックはピカソの制作意図を理解し、ピカソが過激に推し進めた探究によって創造された絵画の新たな文法をブラックが分かり易く解きほぐして自身の作品として公開したことで、ようやく、それが何であるのか一部の人々が理解するきっかけとなったのだ。
ここでいう一部の人々とは、つまり、セザンヌ以後の絵画について模索していた若き芸術家達のことであり、ピカソとブラックが絵画の新たな文法を創造したことを直感で理解し、それを手に自分たちの時代を切り開こうとし、キュビスムと揶揄されたスタイルは多くの若い芸術家たちを巻き込みながら大きな運動へと発展していくことになるのだが、ピカソとブラックは運動の拡大に関わることはほとんどなかった。

 「ピカソとブラックの冒険は、絵画を自然の視覚的呪縛から解放した。つまり、奥行きをもつ幾何学的遠近法を、平面しかもたない触覚的遠近法に転化した。外在する事物のヴォリュームをタブローのヴォリュームのなかへと変換した。事物を暗示する要素はほとんど線のみとなり、色彩は対比をきわだてないものだけに限った。つまり、対象を見るものとしてではなく、読むものとして画面に移す努力をした。この二人の作品にあるものを、アポリネールは 《視覚のレアリテ》 ではなくて 《概念のレアリテ》 であるといった」
- ジャン・ポーラン 『ブラック ―様式と独創―』 より

1910年、第26回アンデパンダン展 (Salon des indépendants) に作品を出品したレジェは、他の若手画家ジャン・メッツァンジュ (Jean Metzinger)、ロベール・ドローネー (Robert Delaunay)、アルベール・グレーズ (Albert Gleizes)、アンリ・ル・フォーコニエ (Henri Le Fauconnier、アンリ・ル・フォコニエ) らと共にルイ・ヴォークセルから"géomètres ignares, réduisant le corps humain, le site, à des cubes blafards" と批判される。
これがきっかけとなったのかは不明だが、批判された五人はモンパルナス大通り近くのル・フォーコニエのアトリエで定期的に会うようになり、そこに他の若手画家なども参加し、ひとつのグループとしてまとまりをみせ始めた。
レジェが先行するキュビストのピカソとブラックと知り合ったのは、このグループが形成された頃、ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの画廊のあるヴィニョン街においてであったという (レジェはキュビストとしてはこの二人に後塵を拝したが、ピカソとは同い年で、ブラックよりもひとつ年上である)。
当時はまだこのグループに名前はなかったようなのだが、1911年には、第27回アンデパンダン展で会場の第41号室を占拠し、キュビスム的傾向の画家たちを糾合した展示を開催するまでに至った。
アポリネールは 『立体派の画家たち 美学的考察』 の中でこの歴史的な出来事について触れている。

 第一回の総合立体派展は、一九一一年のアンデパンダン展で催された。この頃には、この傾向の画家が多くなつていた。アンデパンダン展の第四一号室が立体派の画家にあてがわれ、人びとに深い感銘を与えた。そこには、ジャン・メツァンジェのすぐれた魅力的な作品数点、アルベール・グレーズの風景数点、「裸の男」 「草夾竹桃を持つ女」、マリー・ローランサン嬢の 「フェルナンドX夫人の肖像」 「乙女たち」、ロベール・ドローネーの 「塔」、ル・フォーコニエの 「富」、フェルナン・レジェの 「風景のなかの裸体群像」 がみられた。
- ギヨーム・アポリネール 『立体派の画家たち 美学的考察』 より

と、自分はその現場に立ち会っただけのようなそっけない記述で済ませているが、しかし、Wikipedia によると、

キュビスムがはじめて世に知られることになった契機は、1911年春の第27回アンデパンダン展である。ピカソとブラックの仕事に影響を受けたピュトー・グループの画家たちが会場の一室を占拠し、キュビスムの一大デモンストレーションを行った。観衆はそれらの「醜い作品」を見て衝撃を受け、口々に非難を浴びせた。この事件は、詩人で批評家のギョーム・アポリネール、アンドレ・サルモン、ロジェ・アラールが意図的に仕掛けたもので、その呼びかけに応じて参加した画家はアンリ・ル・フォーコニエ、フェルナン・レジェ、ロベール・ドローネー、ジャン・メッツァンジェ、アルベール・グレーズ、マリー・ローランサン、マルセル・デュシャン、ロジェ・ド・ラ・フレネー、フランティセック・クプカ、フランシス・ピカビア、そして彫刻家のアルキペンコらである。

とあり、実際にはこの事件の仕掛け人の一人であった模様。

ポール・セザンヌがエミール・ベルナールに宛てた手紙の有名な一節 「私たちは自然を円筒、球、円錐として把握すべきなのです (Il faut traiter la nature par le cylindre, la sphère et le cône)」 ―― この一節についてメルロ=ポンティは 「眼と精神」 の中で 「・・・・・・内的構成の法則によって限定されうるものの、堅固さをそなえた純粋な形、そして物の軌跡とか切断面などのその全体から、ちょうど葦のあいだから顔が現れているようなふうに、物の堅固さを現しめる純粋な形」 と言い換え、「だか、これでは、存在の堅固さと存在の多様さとを切り離してしまうことになる」 と述べていたり、小林秀雄の 『近代繪畫』 に収録されたセザンヌ論では 「例へば、『自然を、圓筒と球と圓錐とで處理すること』 といふ有名な言葉にしても、その一つだが、まるで、後になって、キュービスムの理論家逹によつて、誤解されるのが目的で言ひ遺された樣に見える」 と述べられたりと等閑視されている ―― に影響を受けた芸術家がこの当時はまだ多くいた時代であり、レジェもご多分に漏れずその言に影響を受けていたのと、否定するにしても肯定するにしてもピカソとブラックが推し進めていたキュビスムの強い影響下にあったこともあって描く作品は悉く円筒形に埋め尽くされ、例えば、第27回アンデパンダン展に出品された 《風景のなかの裸体群像》 は、今日、《森の中の裸像》 という邦題で知られている1910年に制作された作品で、カール・アインシュタイン (Carl Einstein) はこの作品について 『二十世紀の芸術 (Die Kunst des XX)』 の中で、

機械人間を思わせる単純な肉体がでんと据えられた裸 体画。さらに明暗を鋭く分かつ画家特有の光、精密な光が、肉体をつややかに輝かせる。ここではまだセザンヌ風に灰色と青だった色彩は、のちにもっと強烈に なる。色は自由にカチャカチャと響き合い、共鳴し合い、精緻にみがきあげられた鋼のように肉体を輝かせる。この絵でレジェは、すでに他のキュビストたちか ら独立している。平面的な絵画構想は破られ、力強く対立する量感が対置されている。
- カール・アインシュタイン 『二十世紀の芸術』 より

と言い表せる作品であり、注目すべき最初のレジェの作品であったと述べているのだが、しかし、当時、口さのない人々は 「キュビスム (cubism、立体主義)」 を捩って 「チュビスム (Tubism、土管屋)」 と 《森の中の裸像》 を始めとしたレジェの作品を揶揄したのだそうだ。
レジェとカーンワイラーが知り合いとなったのは、 《森の中の裸像》 が発表されてしばらく経って、アポリネールとマックス・ジャコブがレジェを連れてカーンワイラー画廊を訪れた時だったという。
カーンワイラーは 『キュビスムへの道』 の中で 《森の中の裸像》 が発表された当時について、二流のキュビストたちがピカソとブラックの模倣を繰り返す中にあって、レジェ一人がピカソとブラックが突き付けた問題の一部に取り組み、独自の解決をしてみせた、と述べている。
また、ピカソはその 「チュビスム」 という呼び方がレジェの新しさを言い表している左証だとダニエル=ヘンリー・カーンワイラーに語ったそうで、この意味を反転させるかのような発言は、キュビスムという言葉が、そもそも、ブラックの作品を揶揄する言葉が始まりだったことを思い出させる。

作家、美術批評家として活動したカール・アインシュタインはドイツ生まれのユダヤ人で、1928年にフランスへと移住し、1929年にはジョルジュ・バタイユ (Georges Bataille) と 『ドキュマン (Documents)』 誌の編集に携わった。
1932年のリダ・ゲヴレキアン (Lyda Guévrékian) との結婚には懇意にしていたジョルジュ・ブラックが立ち会っている。
アインシュタインは1936年に始まったスペイン内戦に反ファシズムの闘士として参戦するも、左派の人民戦線政府側の敗北に終わり、打ちのめされる。
1940年、ナチス・ドイツのフランス侵攻でフランスが占領されると、パリで敵国人として拘束されたが脱走。
しかし、徐々に逃げ場を失い、1940年7月5日、ピレネー山脈にある町レステル=ベチャラム (Lestelle-Bétharram) で川に身を投げ自殺した。
引用した 『二十世紀の芸術』 は1926年に出版され (1931年に改訂を加えた第三刷が出版され、翻訳はそれを元にしている)、その挑発的な内容から、この世紀が始まってまだ四半世紀しか経っていないのに二十世紀の美術史とは不遜ではないか等、大きな議論を巻き起こしたという。
『二十世紀の芸術』 は、アポリネールの 『立体派の画家たち 美学的考察』、 カーンワイラーの 『キュビスムへの道』 に続く、キュビスム擁護の書と言えるだろう。
アインシュタインはその 『二十世紀の芸術』 でキュビスムを二十世紀の美術史の最重要な運動と位置付けし、「キュビスム」 を論じた章でレジェについて、ピカソとブラック、そしてフアン・グリスと同じく一つの項を割いて論じている。
その中でレジェの作品の変遷を細かく区分けした年表にしており、それを参考にしながらレジェの作品を鑑賞するのも面白いと思うので引用しておこう (※ただし、1931年までしかない)。

1904年~1905年 後期印象派
1905年~1908年 スケッチ、線のコントラスト。
1909年~1910年 ≪森の中の裸像≫、レジェのキュビスムがはじまる。
1911年~1912年 セザンヌの影響、灰青色の絵画。
1913年~1914年 構成的形態を用いる、≪バルコニー≫、≪階段≫。
1916年~1917年 灰色を放棄。≪トランプをする人≫、構成論的ダイナミズム、「パレットの純粋な色調」 の利用。モデリングされた量感と多彩な平面によるコントラスト。コントラスト、架空の色彩によるコンポジション。
1917年~1921年 構成論的ダイナミズム、頂点 ≪都市≫。
1921年~1924年 大きな静的形象、活気ある風景画。
1924年 壁画、フラットな純粋色。
1926年~1928年 静的時代、対比的対象のコンポジション。
1929年~1930年 ダイナミズム、空間における対象。
1931年 人物画。
- カール・アインシュタイン 『二十世紀の芸術』 より

レジェたちのグループは第27回アンデパンダン展の 「第一回の総合立体派展」 の後、6月にベルギーの首都ブリュッセルで開催されたアンデパンダン展に参加した。
アポリネールはこの展示会で初めて 「キュビスム」 及び 「キュビスト」 という呼称を受け入れた序文をカタログに寄せている。
秋にはサロン・ドートンヌにおいても立体派展が開催され、アルベール・グレーズ、ジャン・メッツァンジュ、フェルナン・レジェに加え、マルセル・デュシャン (Marcel Duchamp) とそのの兄レイモン・デュシャン=ヴィヨンが出品したが、アポリネールによると皆容赦のない嘲罵が浴びせられたという。

11月、フランス北西部のノルマンディ地方で結成されたノルマンディ現代画家協会 (Société Normande de Peinture Moderne) が主催した展示会がパリのトロンシェ通りにある現代美術ギャラリー (Galerie de l'Art Contemporain) で開催され。それに参加。
これをきっかけに二つのグループは急速に接近し、現代画家協会を運営するピエール・デュモン (Pierre Dumont) の幼馴染であるデュシャン兄弟らがアトリエを構えているピュトーに集うようになり、その地で活動していた芸術家たちも含めたグループを結成すると、キュビスムを批判的に継承することを掲げ積極的な行動に出る。
このグループは活動の拠点がピュトーであったことから、ピュトー・グループ (Puteaux Group、ピュトー派) と呼ばれるようになった。

マルセル・デュシャンはレジェらと初めて会った頃のことを次のように回想している。

一九一一年の末に、私はグレーズ、メッツァンジュ、レジェらと出会いました。彼らはひとつのサークルをつくっていました。火曜日ごとにクールブヴォワのグレースのところで集まりがあって、メッツァンジュといっしょに、キュビスムについての本の構想を練っていました。日曜日にもピュトーで集まりがあって、そこにはサロン・ドートンヌのすべてのメンバーと顔見知りだった私の兄のおかげで、多くの人が顔を出しました。そこにはときどきコクトーも現れましたよ。
- M・デュシャン+P・ガバンヌ 『デュシャンの世界』 より

ピュトー・グループに誰がいつ参加したのかというところまでは調べがつかなかったが、とりあえず主だった参加者の名前を挙げておこう。

ギョーム・アポリネール
フェルナン・レジェ
ジャン・メッツァンジュ
ロベール・ドローネー
アルベール・グレーズ
アンリ・ル・フォーコニエ
アレクサンダー・アーキペンコ
ジャック・ヴィヨン
レイモン・デュシャン=ヴィヨン
フランティセック・クプカ
フアン・グリス
アンドレ・ロート
ルイ・マルクーシ (Louis Marcoussis)
ロジェ・ド・ラ・フレネー (Roger de la Fresnaye)
マルセル・デュシャン
フランシス・ピカビア (Francis Picabia)
コンスタンティン・ブランクーシ(Constantin Brâncuşi
チャーキ・ヨージェフ (Csáky József, Joseph Csaky、ジョゼフ・)
アレクサンドラ・レクスチェル (Aleksandra Ekster)


Wikipedia によるとピュトー・グループのスタンスは、

分析的キュビスムが色彩を放棄したことへの批判から始まり、絵画としての豊かさを復活させようという点にあった。

のだというが、グループの統一された考えだったという訳ではなかったらしい (これが後にデュシャンへの批判、そしてデュシャンのグループからの離反につながることになるが、そのことについてはレジェの作品に絡めて後に少し触れることになるだろう)。
また、表層をなぞっただけのキュビスム風作品を制作する者もいたということもあって、後にキュビスムの通俗化に寄与したとして批判されることになる。

1912年春、ピュトー・グループはアンデパンダン展に参加したが、ここでフアン・グリスがグループのメンバーとして作品を出品している。
5月にはスペインのバルセロナにあるダルマウ・ギャラリー (Galerías Dalmau) でフランスの若手芸術家を招いてキュビスム展が開催されたが、これがスペイン国内初となる海外の前衛芸術運動 (前衛芸術という言葉は当時まだ存在しなかったはずなので、ここでこの言葉を使用するのは多少問題があるかもしれない) を紹介する展示会となった。
招かれたのはフェルナン・レジェ、ジャン・メッツァンジュ、アルベール・グレーズ、アンリ・ル・フォーコニエ、フアン・グリス、マルセル・デュシャン、マリー・ローランサンの七人で、スペインからはカタロニアの彫刻家アウグスト・アグエロ (August Agero) が参加し、大盛況だったという。
そして6月、今度はノルマンディ現代画家協会の拠点であるフランス北西部のルーアンでキュビスム展を開催し、この時フランシス・ピカビアがキュビストとして初参加した。
10月、ピュトー・グループ最初の展示会を企画し、「サロン・デ・ラ・セクション・ドール (Salon de la Section d'Or)」 をパリのギャラリエ・ラ・ボエシー (Galerie La Boétie) で開催し、機関紙 『セクション・ドール』 も発行。
この 『セクション・ドール』 展にはピカソとブラックを除く、キュビスム傾向の作品を制作している芸術家がほとんど参加する大規模なものとなった。
"Section d'Or" とは 「黄金分割」 の謂いで、コンセプトはジャン・メッツァンジュとジャック・ヴィヨンの対話の中で生まれ、タイトルの "Section d'Or" はヴィヨンが数年前に読んだレオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci) の 『絵画論 (Trattato della pittura)』 の翻訳で見かけた一節から採られた。


キュビスムの様々な傾向が出揃った頃、アポリネールはキュビスムを四つに分類した。
すなわち、科学的立体派、物理的立体派、オルフェウス的立体派、本能的立体派である。
先にジャン・ポーランの著書から引用した文章の中にピカソとブラックの作品にあるのは 「アポリネールは 《視覚のレアリテ》 ではなくて 《概念のレアリテ》 であるといった」 という一節があったが、実はこれはこの二人だけの作品の傾向を指したものではなく、アポリネールが科学的立体派に分類した作家たちの傾向を指したもので、ピカソとブラックの他に、ジャン・メッツァンジュ、アルベール・グレーズ、フアン・グリス、マリー・ローランサンの名前が挙げられている。
物理的立体派として名前が挙げられているのは、アンリ・ル・フォーコニエただ一人で、視覚的で逸話的な偶有性が排除された純粋な傾向を持つ科学的立体派とは違って、主題とイマージュの混同があるのだという。
オルフェウス的立体派に属するのは、フェルナン・レジェ、ロベール・ドローネー、マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビア、そして科学的立体派でもあるピカソの五人。
オルフェウス的立体派も科学的立体派同じく純粋芸術で、

これは、視覚現実にもとづく諸要素にではなく、完全に芸術家が創造し、芸術家が強力な現実を賦与した諸要素によつて、新しい綜合体を描く芸術である。オルフェウス的芸術家の作品は、純粋な美的快楽、五感に訴える構成、至高の意味、つまり主題を、同時に示さなければならない。
- ギヨーム・アポリネール 『立体派の画家たち 美学的考察』 より

のだというが、実際のところ、名前を挙げられている五人の傾向があまりに違いすぎているのと、その内容があまりに抽象的で、当時その場にいなかった者からすると、アポリネールの分類によるオルフェウス的立体派はそれを把握するのが難しい (それをいえば、マリー・ローランサンが果たして立体派なのか等、他にも突っ込み所が出てくるのだが)。
本能的立体派は直感のみで時代の潮流に乗るように立体派を選択した多くの作家たちのことを指しており、ようするに、先の三つの分類に名前の挙がらなかった者はみなここに属している、ということになる。
アポリネールはこの四つの分類に関する文章の中で、「純粋な傾向」 や 「純粋芸術」 という表現を使用しているが、これが後にジャンヌレやオザンファンらのピュリスムへと繋がっていくことになり、これはレジェともいささか関係があるので後に触れる。

アポリネールは 『立体派の画家たち』 の中で特に重要と思われる作家を個別に取り上げて言及している。
レジェもそこで取り上げられている作家の一人で、

 レジェには一体に、ひとつの構成全体から、それが与えうるかぎりの美的感動をひきだしたいという欲求がある。これこそ風景を造形性の最高段階に導くのである。
 かれは、かれの着想に楽しい単純さで、快い外形を与えるのに全く役に立たないものは、すべて斥ける。
 かれは、古い種族本能や民族本能に反抗して、自分たちの生きている文明本能に、楽しく身をゆだねた最初のひとりである。
 文明本能は、信じられないほど多くの人びとが、抵抗を感ずる本能である。他の人びとにとつては、それは奇怪な熱狂、無知の熱狂である。要するに、他の人びとにとっては、それは、われわれの五感に感じとられるあらゆるものから利益をひきだすことでなりたつている。
 レジェの絵をみると、わたしはひじょうに楽しい。これは模造者のような器用さでつくりだされた愚直な置きかえではない。作家が、今日あらゆる人の気にいるようにつくつた作品も、問題にならない。
- ギヨーム・アポリネール 『立体派の画家たち 美学的考察』 より

 だが、フェルナン・レジェは神秘主義者ではない。かれは画家、単なる画家である。わたしにはかれの単純さが、かれの判断の確実さとおなじように嬉しい。
 かれの芸術は、ちつとも傲慢ではなく、ちつとも下劣でもなく、理窟ばつてもいないから、わたしはかれの芸術を愛する。
 おお、フェルナン・レジェ、わたしはきみのかろやかな色彩を愛する。幻想もきみを仙境にまで登らせはしないだろう。けれどもそれは、きみにきみのあらゆる歓喜をえさせる。
 ここでは、歓喜は完成された作品のなかにも、デッサンのなかにもある。かれは別の沸騰をみつけるだろう。同じ果樹園が、さらにかろやかな色どりを与えるだろう。別の家族が落下する水のしぶきのように散りひろがるだろう。虹が舞踏団の小さな踊り子たちに、派手な衣装を着せにくるだろう。結婚式の人たちは、たがいの背に身をかくしあう。遠近法、遠近法のみじめなレトリック、あのさかさまの四次元、遠近法、不可避的にすべてを小さくするあの方法をとり払うには、もう少しの努力がいる。
 だが、この絵画は液体だ。海、血、河、雨、コップにいっぱいの水、そしてまたわれわれの涙でもある。ひじような努力とながい疲労の汗とともにある接吻の潤いだ。
- ギヨーム・アポリネール 『立体派の画家たち 美学的考察』 より

と評されているのだが、アポリネールは元来詩人ということもあって人物評と詩的詠嘆が綯い交ぜになっており、幾分分かり辛いところもあるかと思うが、その好意は十分伝わってくる。
が、同時代のレジェへの評価としては、アポリネールの詩的人物評よりも、カール・アインシュタインの作家論にあたる方がいいだろう。

 レジェは常に物語性を避けた。ドローネーやシャガール、未来派は、文学的解釈を要する物語の取り扱いに失敗している。文学の世界なら生命力強化として称揚されても、絵の世界では形態を弱体化させてしまう。観念連合による描写は造形力を弱め、文学的心理学的コメントのどうしようもない吹き溜まりと貸す。ドローネーのモチーフの引き伸ばしや未来派のエネルギーの拡散は、文学的に押しつぶされこね回されたキュビスムだ。
 しかしレジェはちがう。彼は物語を反芻せず、ジャーナリズム風スケッチを避けた。だがわたしには「ガルテンラウベ (あずまや)」流儀でエンジンを描けば、アクチュアルだとは思えない。レジェは機械人間の身体を構築したが、それは発動機を信じていたからではなく、人間によって創造された形態がレジェの視覚に適っていたからだ。
- カール・アインシュタイン 『二十世紀の芸術』 より

アポリネールよりもかなり踏み込んだ評価で、他の作家との比較もあって分かり易いのではないだろうか。
既に 《森の中の裸像》 を評価したカール・アインシュタインの文章を引用しているが、これからさらに何点か、時系列に沿うかたちで『二十世紀の芸術』 からフェルナン・レジェの作品評を差し挟んでいくことにしたいのだが、ここではまず、エントリの一番最初にポストしてある1912年に制作された 《青い服の女 (Femme en Bleu, Woman in Blue)》 についての短評から。

人間は構造論の契機であり、対比的彫塑的パーツの産物だ。単純なフォルムにヴァリエーションをつけ、そこから肉体を構築する。
- カール・アインシュタイン 『二十世紀の芸術』 より

《森の中の裸像》 が対象を立方体などに還元・単純化していくセザンヌ的キュビスム期の作品だとするなら、《青い服の女》 は、対象が著しく解体された後に再構成され、より平面的に抽象的になっている。
所謂分析的キュビスムを試みた作品といえ、ピカソやブラックが試みた分析的キュビスム期と違うのは、この二人が分析的キュビスム期に色彩を放棄したことへ批判という視点がレジェにあったところで、基調となる青を始め、赤や黄が大胆に配置されている。
対象の断片化の著しさもピカソやブラックにはなかったものといえるだろう。
1914年に制作された『バルコニー』については、

レジェは未来派の同時性に接した。すなわち人間の形姿を一連の動きで表現し、衝撃のプロセスを叙事詩風に個々の要素に分節した。
- カール・アインシュタイン 『二十世紀の芸術』 より

というのだが、しかしそれはすでに、例えば、ピュトー・グループの仲間であったマルセル・デュシャンが1912年に 『階段を下りる裸体No.2 (Nu descendant un escalier no 2)』 でそれこそ衝撃的に表現したものだったのではないだろうか。
しかもデュシャンは未来派からの影響が強い――とされているが、デュシャン本人はその影響を否定している――その 『階段を下りる裸体No.2』 でグループの仲間から、君があの作品で表現した動きは反キュビスム的でありタイトルを 『裸体は階段を降りるものではない』 と改めるべきだなどと批判され、ピュトー・グループを去っている。
であるなら 『バルコニー』 はグループ内でどう評価されたのか、両作品が関連付けられて論じられていたりしたのかどうかということが気になるが、検索しても情報を見つけることはできなかった。


1913年にモンパルナスにアトリエを建て、レジェのボヘミアン生活は終わりを告げ、作品の制作により集中していく。
日毎に進歩していく社会と歩調をあわせるように、レジェたちキュビストも交流しながら自身のスタイルを模索し作り上げることに情熱を傾けていく生活を謳歌していた。
アポリネールのキュビスム擁護の書 『立体派の画家たち 美学的考察』 が出版されたのも1913年のことだった。
が、終わりは唐突に訪れる。
第一次世界大戦が始まり、モンパルナスやピュトーに集っていた芸術家たちの一種宙吊り状態であった生活は一気に終わりを迎え、若き芸術家たちはバラバラに散っていった。
ジョン・バージャー (John Berger) は 『ピカソ その成功と失敗 (he Success and Failure of Picasso)』 の中で、第一次世界大戦以前のキュビストたちについて、

普通、キュビスムは、ただ美術史の立場からだけ説明される。モスクワの、いわゆるマルクス主義の批評家たちは、キュビスムを、表現主義、ダダイズム、シュールレアリスムといっしょにして、近代かぶれで退廃しているとして排撃する。こういうやり方は、非歴史的で、馬鹿げている。ダダイズムとシュールレアリスムは、一九一四年の世界大戦の落とし子である。キュビスムが可能だったのは、まさにそのような戦争がまだ想像されてもいなかったからである。一つの集団として、キュビストたちは西欧美術の最後の楽観主義者であり、その意味で、かれらの作品は、今までは画家が到達したもっとも発達した物の見方を示している。
- ジョン・バージャー 『ピカソ その成功と失敗』 より

 キュビストたちは、驚くべき暗号の一点に立っていた。かれらは、十九世紀から弁証法的唯物論の革命的期待を受け継いだ。かれらは、世紀の転換期に、世界的に意味を持つ新しい生産手段の期待を感じとった。かれらは、このことにより生じた、近代科学によって正しいとされる条件にもとづく未来に対する情熱を表白した。かれらは、このことを、そういう情熱をもちながら、しかも、別にわざわざ避けようとしなくとも、これに伴う政治的難問や恐怖にわずらわされないで済んだ一時期になしとげることが出来た。かれらは、近代社会の吉兆を描いたのである。
- ジョン・バージャー 『ピカソ その成功と失敗』 より

と述べている。
第一次世界大戦がキュビスムを終わらせ、西欧美術の楽観主義者は楽園から追放されたのだ。


1914年8月、レジェは大戦に動員され、戦線の中にいた。
アルゴンヌ前線で2年を過ごし、塹壕の中で大砲のディテールや飛行機や戦友のスケッチを描き続け、後に 「大戦中に見た大砲などの兵器の機能的美に魅せられた」 と発言している。
そして、休暇になるとそれらをキャンバスに描いて過ごし、映画館で観たチャップリンの映画 (『モダンタイムス』 のことだろうかと思ったが、あの映画は1936年公開だった) に影響を受けたという。
戦線に復帰したレジェはヴェルダン (Verdun) に送られ、1916年9月、ドイツ軍のマスタードガス攻撃を受けフランス軍の兵士の多くが命を落した中かろうじて生き残り、ヴィルパントの療養施設に搬送された。
療養期間中の1917年に 《トランプをする人 "La partie de Carte (The part of Chart, The Card Players)"》 という作品を描き上げた。
この作品には、ロボットのように無機質で不気味な姿の異形の者たちが狭く重苦しい抽象的空間でカードに興じる姿が描かれているのだが、実際の賭博場の賑やかな熱気に包まれた雰囲気からは遠く隔たった重圧的な空気が充満していて、レジェの作品の中では例外的な暗さを持に至った異様なこの作品、それは古式ゆかしい伝統的な戦場とは全く理を異にした、機械化され、非人間化した近代戦争が繰り広げられる冷徹な戦場の異様さそのものと言ってよいだろう。
カール・アインシュタインはこの作品について、

 《トランプをする人》 は感傷的な自我や人体をもたないエンジン人間で、個人ではなくコントラストに富む形態のドラマが示される。ここでは人間は人間が製作した機械の能力や純粋な構造にはおよばないという人間に対する異議が気まずくも申し立てられる。同じ強さの力が、工場・通り・汽船などエネルギー中枢が供する自由な形態を用い、自由に構成された造形力の戯れの中で創造されるべきだ。絵にふさわしいフォルムを活かすテクニックの神話が追及され、機械は人間のメタファーだと分かる。後にシュプレマティズムは非現実的になるが、人間はそのときそのときの時局にふさわしいあり方をしているのかもしれない。レジェは彼のフォルムが時局に源を発しているのを知っていたし、シュプレマティストは現在や未来派シンプルな構成の結果だと思っていた。
 このレジェの人間は、構図内の類型的パーツのモチーフとして描かれる。この芸術は類型形成のじゃまになる心的個性をとらえない。構成的意図に即したテーマが制作され、芸術家は建築家のように仕事をし、芸術家の存在は破棄される。事物がこの現実主義のノルマンディー人に激しく迫り、ルソーの場合のようにモノが強烈に肉薄する。モノの迫真性は農民の子レジェに、事物は有益なエネルギー・有害なエネルギーをはらみ、人間と同様に生々しい存在であることを教える。
- カール・アインシュタイン 『二十世紀の芸術』 より

と述べている。
戦前から追求し続けていたスタイルがこの 《トランプをする人》 でひとつの極に達し、以後、レジェは新たなスタイルに取り組んでいくことになる。
こういってよければ、戦争がレジェに変化を強いたことで、戦前から追求し続けたスタイルは図らずも 《トランプをする人》 で完成したということになるのだろう。
が、しかし、還元や単純化をし、さらに解体し、再構成し、断片化させることで平面的に抽象的になっていたはずの事物が、いつの間にか生々しいモノとして迫ってくるようになっていたことにレジェは危機感を覚えた、というのがカール・アインシュタインを通して見た 《トランプをする人》 を制作していた頃のレジェ理解ということになり、

かれはあらゆる非合理性を排除し、手なずけられた事物と形態で周囲を固め、肉薄するモノに対して、もっと自由に構成されたアンチ・モチーフで身を守った。事物の魔力から逃れ、事物に打ち負かされまいとした。あらゆるダイナミズムをますます排除し、確固たる安定した恒常の産物に避難所を求めた。
- カール・アインシュタイン 『二十世紀の芸術』 より

つまり、生々しいモノから逃避し防御することが必要で、別の方法論でモノと対峙することも必要となったのだ。
1914年に始まった第一次世界大戦と共に運動としてのキュビスムは終わりを向かえたが、そのことにレジェが自覚的であったにしろ、無自覚であったにしろ、その方法論を別のものに変更することなど簡単にできるものではない。
レジェは1917年まではその方法論で――半ば無理やりかもしれないが、それでも――前進を続けた。
結果、戦争という外圧からの影響もあって、思いがけず、それまでの方法論を総括するような 《トランプをする人》 を描いてしまったが、それは限界でもあったわけで、レジェ自身もその点については十分自覚的であったのだろう。
レジェは一兵士として戦争を体験し、否応なく変化せざるをえなかった、というのはまず間違いないのだろうが、体験だけが変化を強いたのではなく、戦争による社会や環境の変化からも変化せざるを得なかった、という面ももちろん考えられる。
つまり、ジョン・バージャーによると、

戦後キュビストの多くはパリに帰って来た。しかしかれらが一九一〇年の精神と雰囲気を見出し、或いは再び創り出すことは、全く不可能であった。ただたんに世界の全様相が違っていたばかりでなく、またただ希望が幻滅に変わったばかりでなく、かれら自身の社会に対する立場が変わっていた。一九一四年までは、かれらは、事件に先んじており、かれらの仕事は予言的であった。戦後には、事件がかれらに先んじていた。かれらは現実に追い抜かれた。かれらは、もはや、――たとえ直線的にも――いま起こっていることの帰趨を察することができなかった。政治優先の時代が始まっていた。革命的なものは、いまでは不可避的に政治的になった。
- ジョン・バージャー 『ピカソ その成功と失敗』 より

という状況の中におかれたレジェは、レジェ自身が変化したということもあって、仕切り直しを迫られた。

1918年、大戦が終結すると、レジェは新たなシリーズ "Le disque" に取り掛かる。
幾つか文献に当たっても、ネットで海外の情報を漁ってみても、レジェの1918年はこの一文と大差ない文章で始められている。
大戦末期に描いたボリューム感のある立体的な 《トランプをする人》 と翌年の戦争終結後に描かれた平面的で抽象的な "Le disque" シリーズとの間には、大きな飛躍があるのに、その間に何があったのか、その飛躍の過程を埋める作品はどういうものであったのか等について触れたものはなく、作品もいくら探してみても見つけ出すことができなかった。
レジェを論じたものとしてはまとまった量のあるカール・アインシュタインのレジェ論でさえその辺りは抽象的で、変化の過程が具体的な例で示されず、生々しいモノから逃避し防御することの必要性と別の方法論でモノと対峙することの必要性から、

レジェは精緻な構造を生み出し、同時に猛威をふるうアクチュアルなエネルギーにふさわしいもっと単純な形態類型を追求した結果、《機械部分》 に到達した。人間を非個人的にとらえる見解は構成的絵画形態に歩み寄るのである。
- カール・アインシュタイン 『二十世紀の芸術』 より

へとジャンプしてしていまい、レジェが 「精緻な構造を生み出し、同時に猛威をふるうアクチュアルなエネルギーにふさわしいもっと単純な形態類型を追求」 するに至った過程を、"Le disque" シリーズで人間・機械・建築を接合するに至った過程を知ることはできない。

とりあえず、「人は立つべくして立った」 を受け入れるように 《トランプをする人》 から "Le disque" シリーズへの飛躍を受け入れることにして、先に進もう。

独特のエネルギーにあふれた現代生活を把握した彼は、今日のテクノロジーとエンジンの力を視覚化した 《機械部分》 を制作した。彼は生活に影響を与え形成するテクノロジーの産物が身近な活用目的とは異なる力の源泉を有し、それらの形態は新たな視覚にふさわしいことを示した。機械のまばゆいばかりの神話。独自の生を営む有機体 (植物、樹木) との決別、人間による被造物の評価。
- カール・アインシュタイン 『二十世紀の芸術』 より

"Le disque" シリーズは 《機械部分》 で完成するのだが、人間・機械・建築を接合するということはつまり自らの手で都市を再構成することで、実際、レジェの作品は都市そのものを描く傾向が強くなっていく。
第一次世界大戦から復興していく大都市パリそのものだけでなく、その社会や文化を含めた環境がレジェに影響を与え、レジェの作品は戦前とは違った様相を見せ始める。
海野弘の 『一九二〇年代の画家たち』 にその辺りのことが詳しく述べられているので参考にしつつ、第一次世界大戦後のレジェのおかれた環境とその環境からの影響についてまとめてみたい。

戦前ピュトー・グループで行動を共にしていたロベール・ドローネー (Robert Delaunay) がその当時、刻々と新たに生まれ変わる都市の色彩や形態をその時間の変化と共に作品で表現することを掲げ、それをシミュルタネイスム (Simultanéisme、シミュルタニスム、同時主義) と呼んだが、大戦後、目まぐるしい勢いで変化していく都市の姿の魅力の虜なっていたレジェは、このシミュルタネイスムを援用し、都市の魅力に迫ろうと試みた。
シミュルタネイスムは戦後、詩の世界――ギヨーム・アポリネール (Guillaume Apollinaire) の 『カリグラム (Calligramme)』 やピエール=ピロ () の 『詩的イマージュ、シック』、そしてブレーズ・サンドラール (Blaise Cendrars) の諸作――で反復されリバイバルし、この同時代的な都市の感性はレジェを刺激した (ピエール=ピロという詩人について何の情報も持ち合わせていなかったため、検索してみたのだが、名前の正確な綴りが不明で、いくつかのアルファベット表記を組み合わせて何度か試してみたものの結局何も探し出すことができなかった)。

ここでレジェが影響を受けた詩を引用してみたいのだが、残念ながらサンドラールの詩は手元にないので、ギヨーム・アポリネールの詩をいくつか引用してみたい。
といっても、視覚詩である 『カリグラム』 を翻訳で一般の詩の形式に置き換えたものを引用してもあまり同時代的な都市の感性といったものが伝わらないと思われるので、『カリグラム』 前後に書かれた詩を引用しておく。
まずは大戦前に書かれた 「地帯」 という詩の一節。

地帯

今や君はパリ市内を歩いている 群衆に混じって独りぽっちで
君の身近をバスの群羊がごろごろ吼えながら走りまわる
恋の悩みが君ののど首を締めつける
今後絶対に君は愛される当がないみたいな気持ちだ
昔の男なら僧院にでも入るところだ
君らは祈りの言葉を口にしている自分に気づいて恥ずかしがる
君は自らを嘲笑する すると地獄の業火のように君の笑いが燃えさかる
君の哄笑が君の生命の背景に金泥を塗りつける
それは人生という暗い博物館に懸けてある一幅の絵だ
時々君は近づいててじっとそれに眺め入る

君は今パリ市内を歩いている 女たちは血まみれだ
思い出すのも厭だが それは美の末裔だった

- ギヨーム・アポリネール 「地帯」 (『アルコール』 収録) より

 続いて同じく詩集 『アルコール』 から、 「恋を失った男の歌」 という詩の一節。

恋を失った男の歌

ジンに酔っぱらったパリの夜は
電機の光に燃えながら
背骨にみどりの火を散らす
電気はレールのつづくかぎり
機械の狂気をうたうのだ
煙でふくれるキャッフェは
そのツィガーヌのサイフォンに
腰巻つけた給仕(ギャルソン)に
悲しい歌を叫びたてさせる
きみに向かって あんなにもぼくの愛したきみに向かって

- ギヨーム・アポリネール 「恋を失った男の歌」 (『アルコール』 収録) より

この二編の詩の断片は飯島耕一の訳。
戦後に書かれた詩からは、「もっと速く行こう (Allons plus vite)」 という、フランシス・プーランク (Francis Poulenc) の歌曲 「ギヨーム・アポリネールの2つの詩~第2曲 『もっと速く行こう (Allons plus vite)』」 としても知られている詩の全文を堀口大學の訳で。

もっと速く行こう

すると夕暮が来て 百合の花が凋む
  美しい空よ 見るがよい そなたゆえの僕のこの悩みを
  わびしい一夜

       少年よ ほほえめ 妹よ 聴け
  貧しき者たちよ 大道を歩め
おお 僕の声に応じて現れる嘘つきの林よ
  魂を焼き焦がすほのお

   グルネル広小路に
   職工たちと親方たち
   五月の樹木 まるでダンテルだ
   空いばりはよせよ
   もっと速く行こう 畜生
       もっと速く行こう

   電信柱はみんな
   彼方から河岸沿いにやってくる
   わが共和国はその胸に
   河岸沿いに密生する
   この鈴蘭の花束を置いた
   もっと速く行こう 畜生
       もっと速く行こう

口をハート型につぼめて恥ずかしがりやのポーリーヌ
          女工たちと親方たち
そうとも そうとも 嘘つき美人め
       あんたの兄さんだ
   もっと速く行こう 畜生
       もっと速く行こう

- ギヨーム・アポリネール 「もっと速く行こう」 より

(この詩は藤井宏行という方がパンキッシュに訳され 「フランシス・プーランク さあもっと急げ」 で公開しておられるので、この堀口大學の翻訳と読み比べてみると面白いだろう)


 「現代都市の日常的な出来事へのレジェの賛歌」 は時代の一面を確かに捉えてはいるのだが、一方ではダダイストたちが現代都市を反対の面から捉え、胎動期であったシュルレアリスムに関わる文学者や芸術家もやがてダダイストと同じ方向から都市を捉えることになる。
この二つの面の違いを単純化すると、レジェが都市の昼に焦点を当てた画家だとしたら、タダイストやシュルレアリストは夜に焦点を当てたということになるだろう。
確かにレジェの作品を見ていても、夜、闇、暗部といったものはほとんど見られない。
しかし、大戦末期に描かれた "Le Soldat à la Pipe (The Soldier with the Pipe)" や 《トランプをする人》 といった作品は例外的にそういった部分に踏み込んでいるのではないかと思う。
戦争体験が表現者を圧し、表現そのものが硬直したり、屈折したりで、それ以前とは表現の質がガラリと違う、多くの場合ネガティブな方向へと変質させてしまう例に出合うことが多いが、レジェの場合も、上述の戦争末期の作品辺りにはそういった変化が見受けられ、戦場で生死の境を経験し、"Le Soldat à la Pipe" や 《トランプをする人》 などには、戦後にタダイストやシュルレアリストが魅了された都市の夜や闇や暗部とはまったく異質の深淵を垣間見ることが出来るのではないだろうか。
レジェが世界のダークサイドを知らないという訳ではないのだ。
しかし、それはあくまで戦中の作品までに留まっていて、戦後になると作品からそういったへヴィネスは後退し、色彩豊かな作品が増えていく。
この明るさは抑圧から解放されたからかもしれないし、楽天的な個人の資質によるものなのかもしれないし、レジェはダークサイドを知らなかったのではなく、戦後、意識して光の射す明るい世界に踏みとどまったのかもしれない。
レジェ自身は実際のところ戦争体験をどのように捉え、そこに何を見出そうとしていたのだろうか。
スーザン・ソンタグ (Susan Sontag) の 『写真論 (On Photography)』 にヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』をコンパクトにした感のある写真に関する様々な引用をまとめた 「引用の小冊子」 という章があるが、そこに

戦争が私を一兵士として機械的な雰囲気の真只中へと突き落とした。ここで私は断片の美を発見した。機械の細部に、ありふれた物体の中に、私は新しい現実を感じとった。現代生活にあるこうした断片の造型的な価値を私は見つけようとした。私が印象づけられ、影響された物体がスクリーンにクローズ・アップされたとき、私はそれらの断片を再発見した。
――フェルナン・レジェ (一九二三年)
- スーザン・ソンタグ 『写真論』 より

という、1923年に戦争体験を振り返ったレジェの発言が引用されており――この発言はジェイムズ・クリフォード (James Clifford) の 『文化の窮状―二十世紀の民族誌、文学、芸術 (The Predicament of Culture: Twentieth Century Ethnography, Literature and Art)』 の中にも孫引きされている――、戦線で負傷し生死の境を彷徨ったというのに、その体験からではなく、近代化し、機械化された戦争そのものから新しい価値を見出そうとし、実際にそれを見出しているレジェをこの発言から知ることが出来る (このレジェの嗜好・傾向は非常に現代的で、今日世に多数棲息している機械フェチやミリタリー・マニア (或いはミリオタ) といった人たちの存在は、レジェのような人が登場し、社会や文化が発展し安定する中でそういった嗜好や傾向を持った人たちが分岐し、細分化していったことの結果なのかもしれない)。
その戦争体験直後の1918年のレジェの表現がレジェの表現の頂点だったと振り返ったのは1943年のマルセル・デュシャンで――1918年当時、デュシャンは活動の拠点をアメリカに置いており、1919年に一時帰国しピカビアの家に居候を決め込んでいた時期があったとはいえ、レジェの作品の変遷を意識して追いかけていたとは思えないのだが、キャサリン・S・ドライヤー (Katherine S. Dreier) やマン・レイ (Man Ray) と創設した『ソシエテ・アノニム (Société Anonyme)』で制作した23ヶ国170人の芸術家の600点を超える作品を掲載したカタログに33人の芸術家についての短評を担当し、その中でレジェについて次のように述べている。

レジェは、例えば、決して立体 [キューブ] を描かなかった。芸術表現の刷新の彼の最初の試みは、力学的フォルムの方へといっそう進んで行きつつあった。彼は現代世界の機械化諸現象から着想を得て、これらを簡潔な断片で表現した。その色調は、主題を強調する原色で表された。レジェは、同じ目的で、人物、樹木等々のデッサンに円筒形を用いた。一九一二年の絵は 「円筒主義」 と呼ばれ、キュビスムとは遠い関係でしかなくなっていった。一九一八年にレジェはその表現の頂点に達した。ヴォリュームと強烈な原色 (青、赤、黄) で、現代生活の広範な諸情景を描いているが、こうしたことにより壁画技法を現代的知性で処理できたのである。レジェの大きなコンポジションはそれらの率直さによって重きをなしている。
- マルセル・デュシャン 『マルセル・デュシャン全著作』 (未知谷) より

具体的な作品名を挙げていないのだか、デュシャンが 「表現の頂点に達した」 と言い表したレジェの作品は、《機械部品 "Les compositions mécaniques (mechanical compositions)"》に連なるシリーズのことを指しているのだろう。
《機械部品》 は制作開始こそ1918年だが、完成したのが1923年だけあって、一連のシリーズの中では最も洗練された完成度の高い作品となっている。
1918年制作の作品の中ではその 《機械部品》 と 《モーター (Le Moteur)》 が個人的には好みなのだが、1923年完成の 《機械部品》 が1918年の作品と言い辛いのと同様に、《モーター》 は1918年に制作された作品の中では異色で、というのもその作風が――年代ごとにきっちり区分けできないとはいえ――1918年の試行錯誤を踏まえた後の1919年のレジェの作風と言ってしまいたくなるところがあるからで、そんなこともあってデュシャンが1918年をレジェの表現の頂点とみているのが私にはいまひとつ納得できないし (まあこれは自分の好みの問題ということなんだろうが)、個人的には1917年の 《トランプをする人》 がレジェが戦前から追求し続けていたスタイルの一つの完成だったのではないかと考えていて (頂点という訳ではなく、あくまでもあるスタイルがそこで完成をみたという意味)、そこにひとつの区切りとか切断のようなものがあるのではないか、だから1918年はレジェがそれまでとは別の方向に舵を切って模索していた時期なのではないかと考えていることも、デュシャンのレジェについてのこの短評に少し納得がいかない理由になっている。
納得いかないといってもデュシャンの評価がひっくり返るでもないのだが、瀬木慎一は現代世界美術全集の第15巻 『ブラック/レジェ』 に寄せた作家論の中で、

一見鈍重なレジェは, こうして, いったん活動を開始すると, 猛然と前進し, 驚くべき多産さで, 14年の 《赤と緑の服の女》, 《目ざまし時計》, 《風景》, 《階段》, 《7月14日》 といった力作を次々に生み, その極点で, 16年の 《パイプを持つ兵士》, 17年の 《トランプ遊び》 といった初期の最高作品に到達する.
- 瀬木慎一 「作家論 ―― レジェの生涯とその芸術 ――」
(『現代世界美術全集 15 ブラック/レジェ』 より)

と述べているので、自分の感想もそうズレたものではないのだと納得することにし、デュシャンが頂点であったと述べた1918年以降、レジェはどう変化していくのか、のらりくらりと寄り道をしながら見ていく作業に戻ることにしよう。


1919年、レジェはジャンヌ=オギュスティーヌ・ローイ (Jeanne-Augustine Lohy) と結婚。
代表作のひとつとして知られる 「都市 (La Ville, The city)」 が制作されたのもこの年である。
このエントリを書くに当たって参考にしている海野弘の 『一九二〇年代の画家たち』 では、当時、レジェが都市をテーマにした作品を制作するようになった一因にブレーズ・サンドラールの詩からの刺激があり――『世界の果てまで連れてって』や『黄金』といった小説家としてのサンドラールしか知らない者としては、レジェに影響を与えていた時代の詩も読んでみたくなった――、その頃から1920年代にかけて都市文学の発生と絵画における都市の表現、つまり言葉とイメージは平行して、時には絡まりあい、相互に補完するように登場する時代だったという指摘の後、クリストファー・グリーン (Christopher Green) の 『レジェとアヴァンギャルド (Leger and the Avant-Garde)』 から次の部分を引用している。

「レジェの主題を伝える一般的な概念、言語的なイメージのまったくの不在、イメージからイメージへ移る彼の切り替えへの急角度の力、これらすべての要素が、『都市』 とそのシミュルタニストのスタイルに、衝撃の絵画的直接性を与えている。それは、戦前の先駆者、とくにロベール・ドローネーや彼の一派をはるかにこえている。ドローネーの一九一三年と一九一四年のサロン出品作、『カーディフ・チーム』 と 『ブレリオ讃』 の二つはこの点をはっきりと示している。これらの作品はあらゆる意味で、文学的であり、戦後的な意味での映画的ではまったくない。さらに、『都市』 でレジェがシミュルタニスムの主題のルネサンスをおこないつつ、個性的な力を示し、影響を受けていた文学的シミュルタニスムの伝統の中で独自性を決定的に示すことができたのは、純粋に絵画的な観点においてであった。
解体された様式のパラドキシカルな秩序、が、くりかえされる垂直線や仕切られた枠とともに、レジェに、絵画的な力を失わせることなく、大規模なデザインに熱中することを可能にさせた。この建築的な要素のうちに、彼の大カンバスの作品と戦前のドローネーのそれとの間の基本的なちがいがあるのである。ただ一度、ドローネーは、大きな、しっかりしたシミュルタニスム絵画を試みている。『パリの街』 である。しかし、『都市』 のみならず、レジェの他の、解体されたシミュルタニスムのテーマのほとんどにある彼の構成の明確さや力は、ドローネーの一九一二年のコンポジションの、もうろうとした非実体性にまったく見られないものである。」
- クリストファー・グリーン 『レジェとアヴァンギャルド』
(海野弘 『一九二〇年代の画家たち』 より)

この引用の後、海野弘は次のように続ける。

一九一九年のレジェが戦前のドローネーのシミュルタニスムとちがっているのは、文学的ではなく、絵画的で、映画的であるということであり、さらにその構成において建築的である点であった。・・・・・・ここで重要なのは、レジェが、サンドラルスなどの文学的シミュルタニスムに触発されつつ、同時にイメージの独自な世界を切り開いていることである。
一九一九年のこのような状況につづいて、一九二〇年から二十四年にかけて、レジェの都市風景はドラマチックな変様をくりひろげてゆく。
- 海野弘 『一九二〇年代の画家たち』 より

1920年、パリで総合芸術誌 『レスプリ・ヌーヴォー (L'esprit Nouveau)』 が創刊される。
編集に当たったのは、ダダの詩人のポール・デルメ (Paul Delmet)、画家のアメデエ・オザンファン (Amédée Ozenfant、アメデ・オザンファン)、そして建築家であり画家としても活動していたシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ (Charles-Edouard Jeanneret-Gris) の3人。
3人とも、一般には馴染みのない名前のだが、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリはこの頃からペンネームで活動をするようになっており、そのペンネームは一般にも馴染みのあるものではあるにもかかわらず、気紛れからそのペンネームを出さずに話を進めてみたい誘惑に駆られたのだが、生憎そんな技量など持ち合わせていないという自覚ぐらいは持ち合わせているので、スイスで時計盤職人の息子として生まれたこの男のペンネームはル・コルビュジエ (Le Corbusier) といったと記し、そのまま登場して頂こう。

この頃のル・コルビュジエは、先の二人とともにピュリスム (Purisme, Purism、ピューリズム、純粋主義) を提唱し、キュビスムを批判的に継承しようとしていた。
キュビスムを批判的に継承というと、ピュトー・グループとそこから派生したオルフィスム (Orphism, Orphisme、オルフィズム) が戦前に存在したが、ピュリスムはそれをも批判の射程におき、装飾性や感情的表現を排し、幾何学的、機械的、工業的で規格化、純粋化、匿名化した表現形態を追求しようとしたのである。
ピュトー・グループとそこに内包される形で存在したオルフィスムは戦前に活動していたグループだが、当時そこに所属していたメンバーの中にはフェルナン・レジェがおり、戦後の新しい空気の中、レジェとル・コルビュジエは出会う。
ピュリストたちの戦後のレジェへの評価は Wikipedia によると次のようなものであったという。

スタイルにおいてピュリストに近いのは、画家の(フェルナン)レジェである。一九一〇年代末までフランスにおける画家の誰より、彼の絵画は同時代的な機械崇拝を反映していた。一九二〇年代初頭においてしかしながら、機械形態を人間化するという特殊な関心を彼は展開し始めた。単純化されたそれと分かる自然の形象ともども、人物像が彼の絵画に再び現れだしたのである。人物の四肢は円筒形として様式化され、これがまだ機械の部品を示唆しており、これらの形が平板な背景に対して配されたのだった。この背景はデ・スティル絵画の長方形配列にときとしてきわめて近いものとなる。とはいえ諸形態の組織はデ・スティルより複雑化し、色彩はきわめてフランス的にも微妙なニュアンスを持つものとなっていた。

両者の接近は自然な流れだった、必然であったという言い回しが似合う出会いだったことが分かる。
また、アメデエ・オザンファンは著書 『モダン・アートの基礎』 の中でレジェに触れ、

一九二〇年から、彼の絵は、生き生きした色を持ち、ますます〈現代の事物〉への勇敢な賛歌となっていった。たくましく彼はわれわれの時代の力を歌った。

と述べている。

英国の建築批評家、レイナー・バンハイム (Peter Reyner Banham) は 『第一機械時代の理論とデザイン (Theory and Design in the First Machine Age)』 においてル・コルビュジエがパリを中心としたキュビスムの潮流の中に若き芸術家として登場し、バンハイムが 「第一機械時代」 と呼ぶ時代に建築家の中心人物のひとりとして活動するに到るまでを第四部の 「パリ――美術界とル・コルビュジエ」 としてまとめている。
その第一章を 「建築と立体派の伝統」 と題し、1910年代にキュビストとして活動を始めた芸術家達と彼らと同世代でありながら後発的にキュビスムに関わり、ピュリストとして活動しながらキュビスムを批判的に継承したピュリスム的思考を建築に接合するに到ったかをコンパクトに概括しており、その中でレジェの名前は二度登場する。
一度目はピュトー・グループのメンバーの一人として、二度目はオザンファンとジャンヌレとの共著 『近代絵画 (La Peinture moderne)』 に収録されている 「近代光学の形成」 から部分引用された幾何学への言及に付された注において (「近代光学の形成」 は、翻訳されたSD選書の 『近代絵画』 では 「近代的視覚の形成」 というタイトルとなっている)。
その該当部を引用しておく (「」 内が 『近代絵画 (La Peinture moderne)』 から引用。『第一機械時代の理論とデザイン』 では括弧で括られずに段落を一段下げた形で引用されている)。

第三に単純な幾何学の支配。
「もしわれわれが仕事をするために室内へ入ると・・・・・・事務所は真四角、机も四角で立方体で、その上のものもみな直角である (紙、封筒、幾何学的な網目をした分類箱、ファイル、紙ばさみ、レジスター、等々)。われわれは一日の時間を幾何学的光景のなかで過ごす。われわれの眼はほとんどすべて幾何学的な形態との不断の交渉を強いられる。」
芸術はこのような時代の諸性格と合致しうる程度にしたがって判断されることになった。そしてたいていの芸術は合致できないために、
「人は不可解な光景に困惑する。実際、すべてのものが反―幾何学から生まれている。・・・・・・そのため、これらのものは時代の外に、われわれが等しく認め、われわれの知覚機能にもよく合致している諸法則とは全然別の法則の支配する世界に住む、ありそうもない種族の作品であると推論せざるを得ない。」 注20

注20 フェルナン・レジェは 『近代の努力』 の一九二四年二月号で、この芸術と機械との比較を推し進め、一九二一年のグラン・パレに共に参加した、サロン・ドートンヌの形式的無秩序と陰影ある色彩と、サロン・ダヴィアシオンの展示品の精確で単純な幾何学と調節されていない「地方的」色彩とを対照させている。かれはまた、仕切りを越えてすべりこんだ技術者たちが芸術作品を眺める際の哀れをさそう畏敬にみちた態度について批評している――だがかれ自身もまたかれらに同様の光景を見せたに違いないことに気づいていないようだ。
- レイナー・バンハイム 『第一機械時代の理論とデザイン』 より

レジェはル・コルビュジエと出会った後、建築した建物の壁面を飾る壁画の制作を依頼されたのを契機に、以後ル・コルビュジエからの壁画の依頼を請け負うことが多くなった。
壁画の制作以後、レジェは絵画以外の世界にも活動を広げていき、舞台美術、映画制作などにも取り組んでいく。
1923年、ダリウス・ミヨー (Darius Milhaud) のバレエ 『世界の創造 (La Création du monde)』 初演時の舞台美術を担当。
翌1924年にはアメリカの実験映画作家、ダドリー・マーフィー (Dudley Murphy) と組んでアヴァン=ガルド映画 『バレエ・メカニーク (Ballet Mécanique、バレエ・メカニック)』 を制作。
主演は 「モンパルナスのキキ (Kiki de Montparnasse)」 として知られているアリス・プラン (Alice Prin) で、撮影の一部を当時キキの恋人だったマン・レイが担当し、音楽はジョージ・アンタイル (George Antheil) が担当した。
モホリ=ナジ・ラースロー (Moholy-Nagy László) はバウハウス叢書の1冊として出版された 『絵画・写真・映画 (MALEREI, FOTOGRAFIE, FILM)』 収録の 「大都市のダイナミズム」 という自身の映画草稿に寄せた文章から、レジェの名前の登場する部分をその前後を合わせて抜き出してみよう。

大都市のダイナミズムの手稿草案は1921年から1922年にかけて成立した. 私はこれを私の友人でこの仕事に多くの劇励を与えてくれたカルル・コッホと一緒に映画にしたいと望んだ. 彼の映画研究所にはそのための金がないため, 我々は残念ながら今日まだ実現するにいたっていない. ウファーのような大きな会社は当時風変わりなものにあえてリスクを冒すようなことをしなかった. 他の映画人は 「アイデアはよいけれども行為が見当たらない」 といって映画化を拒絶した.

それから二・三年が過 ぎ, 最初は革命的な印象を与えた映画のようなもの (das Filmmäßige) のテーゼについて, すなわち撮影機器の可能性と運動のダイナミズムのそれから成立する映画について, 今日では誰でもがあるイメージを思い浮かべれるようになった. そのような映画が1924年にヴィーンの国際演劇・音楽祭でフェルナン・レジェによって上映され, バリーでは ― スウェーデン・バレエの幕間として ― フランシス・ピカビアによって上映された.
- モホリ=ナジ・ラースロー 『絵画・写真・映画』 より

「フェルナン・レジェによって上映され」 というのはまず間違いなく 『バレエ・メカニーク』 のことを指しているのだろう。
新しい表現を作り出そうとしている者にとって、当時、『バレエ・メカニーク』 がいかに革新的な映画であったということがモホリ=ナジのこの文章からも窺い知ることができる。
ただ、『バレエ・メカニーク』 の制作にレジェが積極的に関わり監督したのかというと実際にはそうではなかったらしく、撮影途中で資金繰りに困ったダドリー・マーフィーに頼まれ出資し、共同監督ということになったという経緯がマン・レイの自伝的著書 『セルフポートレイト (Self portrait)』 の中で語られている。
そもそもの始まりは、当時映画の実験をしていると噂されていたマン・レイのもとにハリウッドから来たカメラマンという触れ込みのダドリー・マーフィーがやって来て、機材は一式揃っているので、あなたのアイデアと私の撮影技術で何か新しいものを生み出そうじゃないか、と言葉巧みにマン・レイを誘ったことがきっかけだったという。
ふたりで数日映画のテーマについて話し合った結果、次のように事態は進んでいった。

一緒に作品をつくるならわたしなりにダダのやりかたでやると主張し、かなり詳しく説明してやると、彼も快く同意した。小型撮影機を持ち出して、一緒に散歩に出かけ、人も場所もなんら注意して選ぶわけでなしに幾つかの場面を撮影して見せ、即興という考え方を強調した。もっとトリック的な効果を要するものについては室内での撮影を計画し、ダドリーは古いパテ社の撮影機を三脚に据えた。当時の短編喜劇映画で使われた種類のものだった。彼は映像を変形ないし多重化できるレンズ群を見せ、それらは肖像や接写に使うことにした。撮影機は数日のあいだアトリエに置かれたままだったが、気に障った。目の届くところに道具類があるのは嫌で仕方がなかったからだ。普通は使うまで遠ざけておくか、片隅に布をかけてそっと隠しておくのだった。ふたたび現れたダドリーは、仕事にかかる用意はできたから、フィルムを購入してくれないかと言った。わたしはびっくりした。フィルムも彼の機材備品のうちに含まれており、わたしは着想だけを提供すればよいのだと考えていたからである。彼は撮影機をしまって、画家のレジェのアトリエに持って行った。そして自分も金は無く、レジェがこの映画の資金を出すことに同意してくれたと説明しにきた。わたしは何の異議もとなえず、暗箱がいってしまうのを眼にしてもかえって嬉しくなり、共同の企画にまきこまれずに済んだのでほっとした。ダドリーが 「機械的バレエ」 を実現したのはこうした経緯によるものであり、レジェの名によるこの映画はいくらかの成功を収めた。
- マン・レイ 『セルフポートレイト』 より

マン・レイの 『セルフポートレイト』 には幾分フィクションも含まれているそうなので引用した内容もその全てを鵜呑みにするわけにはいかないが、おおよそはこの通りだったのだろう。
マン・レイが降りた後、資金提供したレジェは映画の内容に何かアイデアを出したりしたのだろうか?ということを知りたくもあるのだが、残念なことにダドリー及びレジェの 『バレエ・メカニーク』 に関する発言など入手しようがなく、タイトルは誰のアイデアだったのか等を含め確認が取れない。

では、音楽を担当したジョージ・アンタイルはどういった経緯で参加することになったのか。
この点についても資料がなく、検索してもそれらしき情報を探し出すことはできなかった。
分かっているのは、『バレエ・メカニーク』 は映画と音楽の尺の長さが違ってしまったため、アンタイルの曲は映画の公開時に併演されずに終わり (併演して惨憺たる結果に終わったという情報も見かけた)、1926年に独立した楽曲として初演され、この複数の自動ピアノ、2台のグランドピアノ、電子ベル、シロフォン、バスドラム、サイレン、三機のプロペラによる未来派然としたノイジーな音楽――未来派を代表する作曲家ルイージ・ルッソロ (Luigi Russolo) の曲が自身の著書のタイトル 『騒音芸術 (L'arte dei rumori)』 通りのノイズであるのに比べると、アンタイルの曲はまともすぎるくらいにまともではあるのだが、これは今の視点からの感想であって、当時は聴衆にとってノイジーな音楽だったのだろう――は、観客の一部が怒って暴徒化するなど大きな騒ぎを巻き起こすことになったということ。
映画 『バレエ・メカニーク』 の劇伴となるはずだったアンタイルの 『バレエ・メカニーク』 は、劇伴にはなり損ねたものの、機械時代を代表する 「機械じかけの音楽」 のひとつであることは間違いないだろう。
「機械じかけの音楽」、つまり "Musica ex Machina" はドイツの音楽学者フレート・K・プリーベルク (Fred K. Prieberg) の代表的著書のタイトルで――と強引に音楽の話を継続してみるが、レジェが活動していた機械時代、音楽の世界ではどのような展開があったのかを見ておくのも面白いと思われるので、まず、細川周平が 『ウォークマンの修辞学』 の中でプリーベルクの 『機械じかけの音楽』 の内容の一部をまとめた箇所を引用してみたい。

極端を承知で言えば、エジソンが蓄音機を発明した一八七七年に音楽は、消費の対象としての記号性を身につけたのだといえないだろうか。(再生産性と消費性の複雑な関係を単純化してしまうことはできないが。)そしてエジソンによって最初の一押しがなされた音楽の消費=記号的性格が、研究室から大衆社会に進出し、浸透する一九一〇、二〇年代の音楽史を、ボードリヤールによる消費の記号論的還元の立場から、洗い直す必要があるように思える。そこでは 『機械じかけの音楽』 の著者、プリーベルクが二十年以上昔に部分的に論じたように (Prieberg, 1960 : 48-75)、ルッソロによる未来主義の音楽の系譜、サティやヴァレーズに遡る都市音 (具体音、機械音) を用いた音楽の系譜、『パシフィック二三一』 (ミヨー)、『製鉄所』 (モソロフ)、『鋼鉄の歩み』 (プロコフィエフ)、『バレエ・メカニック』 (アンタイル)、『馬力』 (チャヴェス) らの素朴-機械主義 (?) の系譜、ヴァイル、クルシュネック、ガーシュウィンに見られるジャズ的劇音楽、シンフォニー・ジャズの系譜、いわずもがな映画音楽の系譜、が、従来の教科書的音楽史――後期ロマン主義→表現主義→無調→十二音、国民楽派 (印象主義)→原始主義→ (ストラヴィンスキー) ――を押しのけて、あるいはそれに大胆に挿入される形で論じられることは間違いない。
- 細川周平 『ウォークマンの修辞学』 より

消費、記号、ボードリヤールという単語が時代を感じさせる。
プリーベルクの 『機械じかけの音楽』 は残念ながら翻訳されていないが、その4年前の著書 『電気技術時代の音楽 (Musik des technischen Zeitalters)』 が1963年に翻訳されており、上の引用と重なる内容が序論にあたる 「さまざまな傾向」 で展開されている。

人間はすでに幾世代もの間、技術的な家畜と共に生活してきた。そして今や彼は同様に技術的に打ちたおされたように見える。キュービズムは解剖学的な近似値点を暴露した。キュービズムにとっては血管、筋肉および関節は管であり、帯状バネであり、軸受けである。ブランクシーBrancusi の彫刻を機械であると申告しようとした、あのアメリカの税関吏は、このことで無意識のうちに――近代芸術の存在内容についての深い認識を表したわけである。効率、店舗、完全さ、流線形――こういったものは、機械が標準を作っている文化の徴候なのである。
- フレート・K・プリーベルク 『電気技術時代の音楽』 より

と述べた後、未来派について言及するのだが、そこでフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ (Filippo Tommaso Marinetti) の 『未来派宣言 (Manifesto del futurismo)』 の十一箇条を

「われわれは明らかにする、世界の壮麗さが新しい美、すなわちテンポの美によって豊かにされたことを。……われわれは諸世紀のもっとも突端の岬に立っている。……不可能さの神秘の扉を打ち破るのが必要であるこの瞬間に、なんのために無意味に後ろを振り返るのか?……われわれはたたえる――労働と娯楽と、もしくは暴動によって動かされる偉大な大衆を、現代の首都の営みの多彩さで多声的な音波を、強圧的な電気製の月の下での、兵器庫や建築現場の夜の震動を、煙を吐く蛇を貪欲にのみくだす鉄道停車場を、濃い煙霧の結び紐で雲につるされている冶金工場を、悪魔の刀鍛冶の上を体操で跳びこすように冷静な川の流れに投げかけられた橋を、水平線をさがしてまわっている昨夜の郵便船を、機関車を……」
- フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ 『未来派宣言』
(フレート・K・プリーベルク 『電気技術時代の音楽』 より)

と掻い摘んで引用し、

こういう心情から機械の音楽が、まずはじめには機械についての音楽が、芽生えてきた。
その目印となるのは、精力を消耗しつくすような運動性に到るまでのリズム分割であり、打撃的効果や騒音の解放であった。
- フレート・K・プリーベルク 『電気技術時代の音楽』 より

と述べている。
イタリア未来派を代表する音楽家としてルイージ・ルッソロの名前を先程挙げたが、プリーベルクはそのルッソロの手紙を引用した後にルッソロはこの手紙と同じ絶対的な率直さで 「未来派オーケストラ」 を6種類のノイズ群に分類し、

破裂し轟然と鳴る音、口笛や舌をならすような音、ざわめきの音、軋りや摩擦の音、打撃の騒音、動物や人間の声の区別をたてた。この組織法によって彼は、騒音の組織である「イントナルモーレ Intonarumori」を作った。……
彼はすでに一九一三年にこの機械で、モデナのテアトロ・ストルキ Teatro Storchi で最初の演奏会を開いている。そして一年後、ルッソロが19個の騒音楽器によって、四つの騒音楽曲――すなわち、「都市の目覚め」、「自動車と飛行機の集まり」、「カジノのテラスでの宴会」、および 「オアシスの襲撃」 ―― を上演した時のテアトロ・ダル・ヴェルメ Teatro Dal Verme では大騒ぎとなった。機械と大都市とが、その中のあらゆるところに表れていたのであった。
- フレート・K・プリーベルク 『電気技術時代の音楽』 より

とその活動に言及し、更に

これらと同質の諸作品を一見してみると、音楽的な聴覚の領域を広げようという傾向が、いかに支配的に登場していたかがわかる。
一九一七年にエリク・サティ Erik Satie のバレエ 「バラード Parade」 が初演された。このスコアには発動機と飛行機の音の様式化された騒音が要求されている。また、このオーケストラ編成の最も目立つ点は 「びん楽器 bouteillophon」 と 「溜り水楽器 flaque sonore」 とである。一九二一年にルッソロの 「騒音家たち Bruiteur」 は、パリのシャンゼリゼ劇場で未来派的演奏会を開いた。二〇年代の半ばにニコラス・オブーホフ Nicolas Obuchow は、騒音を音楽的な表現手段として用いた。一九二七年にはジョージ・アンセイル George Antheil の、打楽器的なピアノ軍と打楽器、自動車の警笛および一顧の飛行発動機によって楽器編成された 「バレエ・メカニック」 が発表された。同じ頃、エドガー・ヴァレーズ Edgard Varèse は打撃音と摩擦音による実験の仕事をしており、一九三一年に最初の成果を上演した。
- フレート・K・プリーベルク 『電気技術時代の音楽』 より

と、機械時代の都市の音楽史をまとめている。
この、目まぐるしく変化を続ける都市と同調するかのように変化していく音楽は、フェルナン・レジェが機械と都市に魅了されて描きあげた絵画、アポリネールやサンドラールやピエール=ピロといった詩人たちの都市をテーマとした詩とも共鳴し合う関係であったと言えるだろう (もちろん、当時の映画や建築にも同様のことが言える)。
Wikipedia のジョージ・アンタイルの項には、

ちなみに「バレエ・メカニーク」の「機械が踊る」というコンセプトは、坂本龍一のアルバム「未来派野郎」に、とりわけ収録曲「Ballet mecanique」に影響を与えた。

とあるのだが、「『機械が踊る』というコンセプト」 は果してアンタイルのコンセプトの中に実際あったのだろうか。
幸い、アンタイルは「バレエ・メカニーク」が収録されたアルバムを持っていて日本語のライナーノーツが付いていたので何かしら言及がないものか当たってみたが、残念ながら特に言及されてはいなかった。
じゃあ、坂本龍一がアルバム発表当時にどのような発言をしていたか確認しようと思い分厚いだけが取り柄の 『坂本龍一・全仕事』 を棚から取り出そうとしたのだが何処にいってしまったのか見当たらず、確認ができない。
仕方なく一応検索してみたのだが、それらしい答えに辿り着けなかった。
"Ballet mécanique" を直訳すると 「機械の舞踊劇」 や 「機械のバレエ」 になり、「『機械が踊る』というコンセプト」 との間には何か飛躍があるように思われるし、レジェの映画にも 「『機械が踊る』というコンセプト」 があるように思えないし、第一レジェが映画の制作に積極的にかかわっていたかどうかが怪しく、映画のタイトルは一体誰の命名によるものなのかそれも不明という状況で、何かモヤモヤが晴れず、すっきりとした気分になれない。

どうにも見通しが悪いので、「『機械が踊る』というコンセプト」 を 「機械と運動」、更に 「機械と身体」 に置き換えてみる。
レジェやアンタイルが活発に創作活動を行っていた時代は、これまでに見てきた通り、マシン・エイジ (機械時代) と呼ばれる時代で、機械と身体をイコールで結びつける動きも盛んだった。
伊藤俊治によると、

二十世紀前半の芸術家たちの機械・技術に対する見解は、絶望的な悲観論から盲目的な心酔に至るまで実に多様な拡がりと矛盾を見せてはいるが、 〈機械と生命〉 という観点からみると、ひとつの共通した認識を認めることが出来る。それはつまり人間の身体や生命を一種の機械そのものへと同化させてゆこうとする方向性である。
 特にこうした方向は一九一〇年代から一九三〇年代にかけての前衛芸術運動の中で大胆に展開されていった。そしてこの 〈身体=機械〉 というテーマを研究し、体験し、思考するために選ばれた場所の多くが、劇場空間であったという事実に注意したい。
- 伊藤俊治 『機械美術論―もう一つの20世紀美術史』 より

というような状況が生まれていたのだそうだ。
そして、〈身体=機械〉 というテーマを演劇の世界で推し進めた人物としてイギリスの舞台演出家エドワード・ゴードン・クレイグ (Edward Gordon Craig) やイタリア未来派のジャコモ・バッラ (Giacomo Balla)、そしてパリから前衛芸術運動の最新の動向を持ち帰ったモスクワで活動を開始した画家・デザイナーのアレクサンドル・エクステル (Александра Экстер, Alexandra Exter) の名前を 『機械美術論―もう一つの20世紀美術史』 の中で挙げていのだが、アレクサンドル・エクステルの機械の彫刻とも呼べる衣装デザインは、フェルナン・レジェの機械絵画からの影響があるという。
カール・アインシュタインはレジェの1910年の作品 《森のなかの裸像》 に描かれた裸像について 「機械人間を思わせる単純な肉体」 と評したが、その作品よりも、第一次世界大戦を経験した後、1917年に描かれた 《トランプをする人》 に描かれた人物たちの方がよりいっそう機械人間じみているといえるし、舞台といえば、レジェも1923年のダリウス・ミヨーの舞台美術を皮切りに、何度か舞台装置手掛けており、そうすると、レジェと 〈身体=機械〉 というテーマは初期からそこにあったものなのかもしれない。

そのテーマとは全く関係はないのだけど思い出したことがあったのでここに付け加えておくと、坂本龍一の映画音楽の制作に参加することの多い上野耕路は、1985年に 『Music For Silent Movies』 というアルバムを発表。
コンセプトとテーマは無声映画で、マン・レイの 『理性への回帰 (Retour à Raison)』、『ひとで (L'étoile de mer)』、『エマク・バキア (Emak Bakia)』、マルセル・デュシャンの 『アネミック・シネマ (Anémic Cinéma)』、ルネ・クレール (René Clair) の 『幕間 (Entr'acte)』 、そしてフェルナン・レジェの 『バレエ・メカニーク』 といった無声前衛映画の短篇の劇伴を作曲している。
坂本龍一の 「Ballet mecanique」 もいい曲で好きなのだが、フェルナン・レジェの 『バレエ・メカニーク』 に合っているのはこのアルバムに収録裂けている曲の方ではないかと思う。
アルバム収録曲の中では、個人的にマルセル・デュシャンの 『アネミック・シネマ』 の劇伴として制作された曲が好み。


と、少々脱線してしまったので、そのまま脱線気味の話題をいくつか。
1920年代頃にフェルナン・レジェの近くにいた、或は交友のあった人物が日記や自伝でレジェに触れているのに出合ったので――シャガールの 『わが回想』 と同じようにどれも一度言及があるというレベルのものなのではあるのだが、軽くまとめておきたい。

まずは先程映画 『バレエ・メカニーク』 に触れたところで一度登場しているマン・レイから。

フェルナン・レジェ、巨漢で、なんとか人々に理解してもらおうとしていた。
- マン・レイ 『セルフポートレイト』 より

なんとコメントしたらよいのやら。
続いてミシェル・レリス (Michel Leiris)。
日記を読んでいると1924年の日記の中にレジェの名前が出てくる部分があった。

1924年
6月2日日曜日

「釘をもってしては釘はつくれず、釘は鉄で作られる」 (フェルナン・レジェ)。「鉄は釘でつくれず、釘は釘でつくられる」 (ホワン・グリス)。「料理人たちの原理。兎のシチューをつくるのに兎が必要と考えるのは誤りだ」 (ロカンボル)。
- ミシェル・レリス 『ミシェル・レリス日記 1』 より

見逃しているかもしれないが、レリスの日記にレジェの名前が出てくるのはおそらくこの箇所のみだろう。
ホワン・グリス (Juan Gris、フアン・グリス) は転向することなく生涯キュビストとしての活動を続けたスペイン出身の画家、ロカンボル (Rocambole?) は不明。
それぞれの作風についての喩だということは分かるのだが、その喩がどういう意味なのかは分かりそうで分からない。
最近読み返した横光利一の短編集の中に 「街の底」 という短編あり、上に引用した一文を写し取っている時にその短編のある一場面を思い出した。

彼は漸く浮き上った心を静に愛しながら、筵の上に積っている銅貨の山を親しげに覗くのだ。そのべたべたと押し重なった鈍重な銅色の体積から奇怪な塔のような気品を彼は感じた。またその市街の底で静っている銅貨の力学的な体積は、それを中心に拡がっている街々の壮大な円錐の傾斜線を一心に支えている釘のように見え始めた。
「そうだ。その釘を引き抜いて!」
- 横光利一 「街の底」 より

初出は1925年に 「文芸時代」 誌というからレリスの日記からおよそ一年の違いがあるが、ほぼ同時代といっていいだろう。
パリにおいて都市や都市生活や都市環境を主題にした画家レジェ (の作風) を喩えるのに 「釘」 が用いられた頃、極東では新感覚派の旗手として活動していた横光利一が、関東大震災で崩壊した東京がその後急速にモダン都市東京として復興するのを目の当たりにしながら都市を主題とした掌編をいくつか書いており――夢野久作は『九州日報』の記者時代に震災後の東京を訪れ取材をしたが、およそ一年後に再訪して再度取材の後、1924年10月から12月にかけ、杉山萠圓名義で 「街頭から見た新東京の裏面」 というルポルタージュを連載する。直接このエントリとは関係はないが、地方在住者がその当時の復興する東京をどう見たのか非常に興味深い内容となっているので、被災者のひとりであった横光利一が震災と復興とを経験した後に消化して書いた諸作と並行して読んでみるという、非常にブンガク的な横道への逸れ方をしてみるのも面白すかもしれない――、そこにも唐突に 「釘」 が比喩として使われるという偶然が起きていて、そう、それはどう考えても偶然で、両者は無関係でもあるのだが、自分の頭の中ではそのふたつが関連付けられてしまい、「釘」 がその時代を象徴する何かであるかのような妄想に囚われそうになる。
あるいは、「壮大な円錐」 という言葉からはフェルナン・レジェの初期の作品を連想する、とレジェに関係付けられなくもない。
また、キュビスムの詩人といわれたピエール・ルヴェルディ (Pierre Reverdy) の詩集 『縊れ縄』 に収められた 「乾いた舌 (La Langue seche)」 という詩にも 「釘」 の一語が登場する一節があるので、奇妙なる偶然の一致の一例として引用しておく。

釘がそこに
  斜面を引き止めて
昇がった風に明るいぼろきれ それは吐息
         そして理解する人
   すべての道は裸だ
舗石 歩道 距離 手摺りは
          白い
- ピエール・ルヴェルディ 「乾いた舌」 より

この詩がキュビスム的かどうか実のところ自分にはよく分からないのだが、こうしたまとめの流れでみてみるとなにがしかの意味があるように思えてくるから不思議だ (もちろんこれも気のせいなのだが)。


もうひとつ、レジェへの言及がある本について軽く触れておくとしよう。
先日、ルイス・ブニュエル (Luis Buñuel) の自伝 『映画、わが自由の幻想 (Mon dernier soupir)』 を久しぶりに読み返した。
1920年代の後半、映画 『アンダルシアの犬 (Un Chien Andalou)』 がきっかけとなってシュルレアリストの仲間入りをしたブニュエルがその出会いと別れについて振り返りながら、シュルレアリスト以外にも 「もっと孤独な探求を続けている者もあった。モンパルナスで出会ったフェルナン・レジェとは、かなりしげしげと会っていた。」 とレジェについてほんの一言程度ではあるのだけど語っている箇所に行き当たった。
二人がどういった経緯で出会ったのか、どういった会話を交わしたのか、ブニュエルは映画 『バレエ・メカニーク』 についてどんな感想を持っていたのか等々、もっと詳しく語って欲しかったのだが、残念ながらレジェへの言及はほんの数行で終わってしまっている。
それが残念でならない。

ついでにルイス・ブニュエルとミシェル・レリスの関わりについて触れておくと、レリスの著書 『幻のアフリカ (L'Afrique Fantôme)』 の解説でレリスがアフリカ横断調査団に加わったのは民族学者マルセル・グリオール (Marcel Griaule) の誘いによるものであるとある。
が、ブニュエルの 『映画、わが自由の幻想』 によると、この調査団に撮影班としてついて来ないかという誘いは、最初自分にあったのだがアフリカに魅力を感じなかったためレリスにこの話を持ちかけたとあって、その経緯に些か違いがみられる。
ブニュエルのこの自伝には出鱈目な記述も多々あるらしいのだが、この経緯は実際のところどういったものだったのだろう?

以上、どうでもよい疑問で脱線を終わらせ、レジェの話に戻すことにしたい。



レジェは1923年にセーヌ川を就航する荷物船とその周囲の工業化した都市風景をテーマとした 《大きな荷船 (Le grand remorqueur)》 という作品を制作。
海野弘によると、この頃がレジェが最もピュリスムに接近していた時期だったという。
ただ、どこまで近づいていたとしても両者にはやはり差異があり、クリストファー・グリーンはその差異について次のように述べているという。

ピュリストとレジェを分かつのは、後者の現実世界のディテイルへの好奇心である。レジェはいかに世界を幾何学的なフォルムにおいてとらえようと、決して抽象的になることはなく、彼の目はつねに、現代都市の生き生きした相にひかれているのである。したがってレジェは、ピュリスム (機能主義、抽象主義) とシュルレアリスムの間にいるといえるのかもしれない。
・・・・・・レジェは、新しいフォルムを追及しつつも、それは決して抽象ではなく、エネルギッシュでスピーディな現代都市の生活空間そのものを決して離れることはなかったのである。一九二〇年から二四年にかけてレジェが到達した表現、さらに一九二七年ごろにかけて、輝くように楽しげな現代生活風景を自由に描いた作品が、カサンドルのポスターの大きな支えであったのではないだろうか。
- 海野弘 『一九二〇年代の画家たち』 より

引用部の最後に突然カサンドルという名前が出てきたが、『一九二〇年代の画家たち』 の中からこれまで引用した文章はすべてアドルフ・ムーロン・カッサンドル (Adolphe Mouron Cassandre, A. M. Cassandre、A. M. カッサンドル) について書かれた章からのもので、海野弘は章の中心人物のカッサンドルについて語るのと同じくらいのページをレジェに割いている。
これはアール・デコ期に活躍したカッサンドルがその時代を代表するスタイルを作り上げるに至った背景を語るうえで、同時代に活躍したレジェ――といってもレジェの方が20歳ほど年上――の存在が大きく、レジェ抜きにカッサンドルが作り上げたスタイルは語りえないとの理由からレジェについても大きくページが割かれているのだけど、抽象に流れることなく新しいフォルムを追求し、活動的でスピード感のあるモダンな都市空間ときらめくような都市生活者の生活環境を描き続けたレジェについて知ることで、カッサンドルがどれほどのものを学び取り自身のスタイルを作り上げるに至ったのかが分かり、面白い。


さて、1920年代に入ると第一次世界大戦後の混乱も落ち着き、パリも活気を取り戻していた。
パリには世界各国から様々な芸術家や後に失われた世代 (ロストジェネレーション、Lost Generation)として知られることになる作家たち――アーネスト・ヘミングウェイ (Ernest Hemingway)、ジョン・ドス・パソス (John Dos Passos)、F・スコット・フィッツジェラルド (F. Scott Fitzgerald) とその妻ゼルダ (Zelda Sayre Fitzgerald)、E・E・カミングス (E. E. Cummings)、エズラ・パウンド (Ezra Pound) といった小説家や詩人がその代表――が集まっていた。
作曲家のコール・ポーター (Cole Porter) もそういった一人で、その友人のジェラルド・マーフィ (Gerald Murphy) と妻のサラ・マーフィ (Sara Murphy) も1921年に抑圧的な親から逃れ、自由を求めてパリにやって来た。
ジェラルドはキュビスムに感化され、絵を学び画家となったが、その過程でおそらくレジェと知り合いになり、影響を受けている。
レジェが1923年にダリウス・ミヨーのバレエ 『世界の創造』 の舞台美術を担当したことは先に触れた。
この時、レジェからバレエ・スエドワ (Ballets Suédois) がミヨーのバレエの前に短い作品を上演したいのでアメリカ人の作曲家を探していることを聞いたジェラルドは、友人のコール・ポーターを推薦し、自分は舞台装置の制作したいと志願、更にストーリも担当して出来上がったのが "Within The Quota" というショート・バレエ。
このバレエのためにジェラルドの描き上げた背景幕は驚くべきものであったらしく、10月25日の初演をジェラルドと見たピカソはこいつは凄いや!と驚きを伝えたという。
ポーターとジェラルドがバレエ・スエドワから正式な依頼を受けたのは1923年の夏のことで、この頃、ジェラルドはレジェに 『マンハッタン乗換駅 (Manhattan Transfer)』――米国のジャズ・コーラス・グループ、マンハッタン・トランスファーはグループ名をドス・パソスこの小説からとっている。また、『黒い時計の旅』 で知られる小説家のスティーヴ・エリクソンは、好きな小説の一冊にこの 『マンハッタン乗換駅』 挙げている――の構想を練っていたドス・パソスを紹介し、共に映画好きだった二人は映画におけるクローズアップの重要性などについて語り明かし、親友となった。

日々新しい出会いや出来事が起こり、それが新しい表現につながっていた時代のパリ――そこに居合わせた芸術家の中には日本の芸術家も多くおり、レジェに師事した画家も二人いた。
一人目は岡山生まれの画家坂田一男。
1921 (大正10) 年に渡仏し、まずフォーヴィスムの画家として知られるオトン・フリエス (Achille-Émile Othon Friesz) の絵画教室で学んだ後、1923年からフェルナン・レジェの絵画教室でキュビスムを学んだ。
坂田一男が師事した頃のレジェのスタイルは、先に引用したカール・アインシュタインのレジェ年表によると、「大きな静的形象、活気ある風景画。」 となっていた頃で、海野弘によるとレジェが最もピュリスムに接近していた時期である。
坂田一男の留学期間は12年間にも及ぶことになるのだが、その多くの時間をレジェ下で、最初は生徒として、その後は助手としてキュビスムの研究に打ち込んだ。
1924年にレジェがアメデ・オザンファンと共同でフリースクールをしたのが縁でオザンファンと知り合い、レジェが病気で講義ができないことがしばらく続いた時には、交代で講義を行ったこともあったという。
また、オザンファンを通じてジャン・ヌレ (ル・コルビュジエ) とも交流を深め、彼らが唱えたピュリスムにも共感を示した。
帰国後は中央で活動することはせず、岡山で黙々とキュビスムの作品の制作に没頭。
キュビスムを一つの流行のようにし、表面をなぞった作風の絵を描いていた日本人画家が多かった中、この坂田一男だけが唯一キュビストの自覚を持ってキュビスムの作品を描いた、というのが現在の評価だという。

二人目は和歌山生まれの画家川口軌外。
川口は1919年から1923年にかけ一度フランスに滞在して絵画を学んだが、帰国後、フォービズムやキュビズムに興味を持ち、1925年に再び海を渡った。
2度目の渡仏ではまず、アンドレ・ロートの学校の門をたたき、その後1926年にロートと同じピュトー・グループの画家として活躍していたことのあるレジェに師事した。
川口がレジェの下で絵を学んだ頃は、カール・アインシュタインのレジェ年表では、1926年から1928年にかけてのレジェのスタイルは、「静的時代、対比的対象のコンポジション。」 となっている。



英国生まれで、米国の大学で教鞭を執った建築史家で建築家のコーリン・ロウ (Colin Rowe) は、画家で建築理論家のロバート・スラツキイ (Robert Slutzky) と 「透明性 ――虚と実 (Transparency: Literal and Phenomenal)」 という論文を共同執筆し、1963年に発表 (後に 『マニエリスムと近代建築 (The mathematics of the ideal villa and other essays)』 に収録)。
この論文の中で、透明性についてガラスやプラスチックといった物質的特性を実 (リテラル)、一見不可視といえる構造や空間から見えてくる特性を虚 (フェノメナル) に分類し、キュビスムを例に透明性の虚と実の相違を論じて分類した後、建築に適用してみせた。
ふたりは、

透明性は、金網やガラスのカーテンウォールなど、物質の持つ固有性である一方、ケペッシュや幾分控え目ながらモホリが主張するように、ある構造の持つ固有性である。そしてこのために、物理的なまたは 「実」 の透明性と、知覚的なまたは 「虚」 の透明性とを区別してしかるべきであろう。実の透明性という概念には多分ふたつの根元が考えられるだろう。そのひとつは機械の美学でありもうひとつはキューピストの絵画である。一方虚の透明性はキューピストの絵画にのみ根を持つ。そしてたしかに一九一一年から一二年にかけてのキューピストの画面からは、どれを見ても二つの透明性の存在が明らかになるのだ。
- コーリン・ロウ 「透明性 ――虚と実」 (『マニエリスムと近代建築』 収録) より

と述べた後、まず、キュビストたちに大きな影響を与えたポール・セザンヌの後期の作品 《聖ヴィクトワール山》 を分析して、この作品にキュビスムの絵画に顕著に表れる透明性のふたつの特徴が複雑に絡み合っていることを明らかにする。
次いで、パブロ・ピカソの 《クラリネット奏者》 とジョルジュ・ブラックの 《ポルトガル人》 を俎上に。
《クラリネット奏者》 は輪郭が比較的はっきりとしており、奥行のある空間構成で人物は解体されてはいるのだが浮き立って見えるが、それに比べると 《ポルトガル人》 はその輪郭がかなり曖昧で、前後の層というものをそこに見ようとしても、切れ切れに走る線に対して水平線と垂直線のグリッドを複雑に構成するような面が溶け合うように複雑に絡まっていて奥行のない平坦な空間をそこに見てしまう。
ピカソの作品には奥行があり、層は地層の様に重なり合っているためそこに透明感のある像を見たという印象を持つことができるが、ブラックの作品にはペラペラと剥がし取れるような層はなく、空間が歪んでいるかのように混じり合い溶け合っているため空間的な奥行を立体視できないというそれぞれの印象は、後にピカソの作品の奥行のなさに気付き、ブラックの作品の奥行の深さを知覚することで最初の印象とは全く逆へ変化するだろう。
そう分析した後、ピカソの作品にあるのはリテラルな透明性であってフェノメナルな透明性でなく、ブラックの作品にあるのはフェノメナルな透明性であってリテラルな透明性ではないのである、と分類。
続いて、後続のキュビスト、ロベール・ドローネー (Robert Delaunay) の 《重ね窓》 とファン・グリス (Juan Gris) の 《静物》 が窓と瓶という透明な物質をどう描いたかを分析し、前者をリテラルな透明性、後者をフェノメナルな透明性に分類した。
そして、モホリ=ナジ・ラースロー (Moholy-Nagy László) の 《ラ・サラス》 とフェルナン・レジェの 《三つの顔》 が

《ラ・サラス》 では五つの輪がS字形の帯で結び合わされており、二組の半透明の台形の平面、何本ものほとんど水平な線と垂直な線、無数の明暗の斑点、幾つもの放射状の線などが黒い背景の上に重ね合わされている。《三つの顔》 は三つの部分に大別され、それぞれの部分には、有機的な形態、抽象的な人工物、純粋に幾何学的な図形が示され、これらが水平の線と共通の輪郭線によって結びつけられている。モホリとは対照的に、レジェには画像を互いに垂直になるよう、そして縁の部分と直角になるように並べている。彼はこれらの画像を平板で不透明な色彩で描く一方、極めて対比の強い面を重ね合せることによって 「図」 対 「地」 の関係を作り出している。そしてモホリは彼独自の外部の空間へと窓を開け放ったように見えるのだが、レジェの方はほとんど二次元の枠の中で創作を続けながら極めて明快な 「陰」 と 「陽」 の形態を作り上げている。このように枠をはめることにより、レジェの絵には両義的な奥行きが生まれ、モホリがジョイスの文章の中に見いだした虚の透明性が生まれているのである。しかしモホリ自身の絵画には、実の透明性は描き出されたものの虚の透明性は表現され得なかったか、あるいは彼自身表現しようとしなかった。
……レジェは洗練された技巧によって後期キュービズムの様々なモチーフを組み立て、はっきりした輪郭を持った形態の多面的な働きを余すところなく解明した。幾つもの平面、存在感を持った立体の排除、現実というより暗示によるグリッド、色彩や配置や慎重な重ね合わせなどによって浮かび上がってくる切れ切れの市松格子。このような手法のために、彼の絵を見る者は画面全体の中に無数の大小の組み合わせを見いだすのである。レジェは形の構成に関心があり、一方モホリはキューピストの画像を受け継いだが、それをキューピストの空間構成の文脈から切り離した。レジェは画像と空間の間に保たれるキューピスト特有の緊張を受け継ぎ更にそれを強化した。
- コーリン・ロウ 「透明性 ――虚と実」 (『マニエリスムと近代建築』 収録) より

と分析され、前者はリテラルな透明性に、後者はフェノメナルな透明性に分類さたところでキュビスト達の作品の分析と分類は終了する。
この後、ヴァルター・グロピウス (Walter Gropius) とル・コルビュジエの設計した建築物が先のキュビストの作品と同様に分析され、実の透明性と虚の透明性に分類されることになるのだが、その分析と分類の手つきが素晴らしく、読んでいてとても面白くて刺激的。
しかし、グロピウスとル・コルビュジエについてはまとめるのに難儀しそうなので、リテラルな透明性とフェノメナルな透明性についてのお話はこの辺りにしておくことにしたい。
また、キュビスムにおける透明性の虚と実の相違については、モホリ=ナジのエントリで改めてまとめる予定でいるので、そちらも合わせて読んで頂けると、透明性とは何ぞやということがいま少し分かり易く見えてくるかもしれない。



昭和五年 (1930年)、美学者の中井正一は 『思想』 二月号 (九十三号) にル・コルビュジエの 『建築をめざして』 に収録されている 「建築家各位への覚へ書 Ⅲ」 という章の終わりの、

「我々は構成の時代にいる。社会的経済的に新しき条件への適応時代にいる。我々の船は今や岬を回る。そこに展開さるる新しき水平は、これまでの陋習をことごとく論理的構成をもって修正せる不変の一線である。
建築に於いて今や過去の構成方法は終を告げた。建築造型の表現上の論理的根拠をこの新しき基礎の上に立てるときにのみ、人々は建築の永遠なる真理を見出す。今後二十年がこの建築の課題を創造をもって解き果すであろう。偉大なる問題の時代、解析、試練、美学上の偉大なる価値転換の時代、この現代こそ、新しき美学の出現するであろうところの時代である。」
- ル・コルビュジエ 「建築家各位への覚へ書 Ⅲ」
(中井正一 「機械美の構造」 (『美学的空間』 収録) より)

という引用 (この引用部は、鹿島出版社のSD選書から現在出ている翻訳では、 「われわれは、新しい社会的経済的条件にもう一度適合させて建設する時代に当面している。~」 という訳文になっている) から始まる論文 「機械美の構造」 を発表している。
中井正一はこの論文の中で、プラトンから受けてアリストテレスが芸術について考察し導き出したテクネー (技術) とミメーシス (模倣) という概念はロマン主義においては天才と創造と美という概念によって軽視され、オスカー・ワイルドはアリストテレスの 「芸術は自然を模倣する」 という 『詩学』 の中に書かれた有名な一節を 「芸術が自然を模倣するのではなくして、寧ろ自然こそ芸術を模倣する」 と逆説的に表現しなおして見せたのだが、社会や経済や科学や産業といった環境の変化や変革や発展によって再び技術と模倣の時代を迎えている (ロマン主義の陥った放恣と個人性と唯美主義からギリシャ的芸術観である規律と関係と統一への移行ということになるのだと論じているのだが、中井正一のこの視点は後に 「集団的制作物」 である映画へのこだわりにつながり、更に 「委員会の論理」 へと発展していくことになるのだろう)。
機械美には一見、ロマン派的見方とギリシア的見方という対立する見方があるが、ポアンカレーの 「価値あるものは、単に秩序ではなくして、予想しなかった秩序である。機械はあるがままの事業を呑み込むことが出来ようが、その魂は常に彼から逸し去るであろう」 という言葉から敷衍し、止揚するに (というまとめ方は乱暴すぎるがお許しを)、美学史上での位置はロマン派的芸術観とは対立する場所を占めることになるであろうと述べている。
この 「機械美の構造」 ではレジェについて直接言及してはいないのだが、第二章で社会の変化や科学発展による美意識の変化によってル・コルビュジエの言う 「見えざる眼」 やベラ・ボラージュの言う 「見る人間」 やジカ・ヴェルトフの言う 「キノの眼」 といった非個人的/非人間的な視覚 (という言い方を中井正一はしていない) が現代社会に浸透していると述べ、

この 「冷たい視覚」 の 「人の視覚」 への浸透、これが最近の芸術、建築、絵画、彫刻に於ける大きな動きの一つではあるまいか。かの瞳の冷たいうるみ、かの瞳の思いまたたき、かの瞳の内燃せざるまなざし、それらのものの模倣が最近の芸術の傾向に見出す一つの流れであるとも云い得るであろう。「個性」 が一つの拡がれる 「集団」 の性格を模倣するとも云えるであろう。
- 中井正一 「機械美の構造」 より

という文で〆ているのだが、その文末に注が付けられおり (雑誌掲載時に付けられたものなのか、後に 『美学的空間』 という書籍にまとめられた折に付けられたものなのかは不明)、そこに、

ピンセルをすて映画に入ったレジエ、或は舞台より映画に入り、メイエルホリド、或はモーリー、ナギーの運動等のものをここで注意する必要があろう。ピカソの近況、ピカビア、ハガル、キリコの傾向も又注意さるべきであろう。
- 中井正一 「機械美の構造」 より

と、この論文が書かれる6年前に 『バレエ・メカニーク (Ballet Mécanique)』 を制作したフェルナン・レジェの名前が挙げられている (ちなみにピンセルはドイツ語で筆のこと)。

中井正一は昭和九年 (1934年) に 『思想』 の七月号 (四十九号) に 「現代に於ける美の諸性格」 という論文を発表し、「機械美の構造」 をもう少し大きな枠組みの中で捉え直しているのだが、そこにもレジェの名前が出てくる箇所があるので、前後を含め引用しておこう。

先の表現主義的世界観的実践にせよ、又この新心理主義的世界観的実践にせよ、共に行動力なき知識人階級が推移して行く、巨大なる歴史的事実に深い恐怖を一方では感じ、一方では瞬間の裂目の中に落下的に逃避せんとしたところの存在感の二つの行方とも考えられるであろう。勿論同じ知識階級が又上すべりにこの集団的工業主義に追随した場合もないではない。マリネッティ以下の未来派の立場がそうである。それは一時的なファナティックな煽りであって、正しい肉迫ではなく、只街頭的消費的な速力的なる通りすがりの瞥見的興味以外のものではなかったのである。この傾向は欧州大戦に参加した芸術家の機械的武器及び集団的圧迫の印象を通して、生産より遊離して、只機械のロマンチシズムにまで達したレジエ、グローメル等が挙げられるであろう。この発展は後期印象主義の後継者であるキュビスムの発展に深い関連をもったのである。
このキュビスムの芸術的態度はすでに先の存在感とは対蹠的に体系的純粋性の世界観の群に属するものなのである。数学的科学的形相として、それらのものが構成される。それらのものはロージエ・アラアルが指摘するように、「一定の関係に於いて、単純な、抽象的な諸形式を与える」 のであり、「数学的混沌の中に於いて秩序を立てる事」 である。かかる傾向はモンドリアン、デスブルグ、モホリ・ナギー達の無対象性の芸術に至って窮極にまで立到る。
- 中井正一 「現代に於ける美の諸性格」 より

機械時代の到来による時代の変化に適応しようとする知識人と言いようのない不安を感じ反発する知識人がそれぞれの主張を繰り返す時代にあって一部の芸術家たちは機械のロマンチシズムにのめり込んでいく傾向があり、作品にもそれが反映されている、圧縮するとこういったことだと思うが、その一部の芸術家のひとりがフェルナン・レジェということになる。
以上が中井正一が第二次世界大戦前に発表した論文中に登場するレジェについてのまとめ。
第二次世界大戦後の昭和二十五年 (1950年)、『思想』 八月号 (三一四号) に 「機械時代と理論並に芸術の適応」 (後に 『美学入門』 の中に組み込まれる) を寄稿し、その中にレジェの名前が登場する 「機械美に酔う人々」 という節で、

今まで述べ来ったように、機械時代の出現にあたって基礎的な世界の出来事は、個人的主観が、十九世紀にあったような自由の姿ではなく、何か他のものと成って来たことである。その自由は機械の出現によってより高く飛翔するのであるか、又は、イカロスのように恐ろしい墜落に直面するものであるか、芸術はその疑問に直感でもっていろいろの適応をもったのである。
アメリカの穀物倉をアメリカ人は気がつかぬにかかわらずそのもつ機械の美しさを把えて新しい建築美を打ち立てたコルビュジェ又その周囲のジャンヌレ、グロピウス達は徹底した機械の美しさに酔う人々であり、国際連合の建築に参画した人々でもある。
建築は住む機械である。そして機械の美しさは、その中にある数学的秩序が、見ゆる音楽として、その均整と秩序を感覚の中に伝えてくれるのである。それは宇宙の秩序にまで関連をもつところの 「精神の数学的作品」 なのである。飛行機の美しさは誰も飾っているのではない。その機能の函数的数学的秩序の美なのである。この考え方はシュプレマチズム、無対象性の芸術にまでその涯をもっている。レジエ、グルーメル、ロージェ・アラール、モンドリアン・デスブルグ、モホリ・ナジの系統のものがそれである。
- 中井正一 「機械時代と理論並に芸術の適応」 より

と、戦前の 「現代に於ける美の諸性格」 をなぞる様に改めて機械時代についてまとめているのだが、そこに再びレジェの名前が登場している。
以上で美学者の中井正一の著作に登場するフェルナン・レジェにつてまとめは終了。
続いて中井と同世代に中井と同じく一時期 「機械美」 について盛んに論じていた美術評論家の板垣鷹穂に登場して頂くとしよう。
板垣の建築関係の著書はそのエディトリアルデザインなどから古書価格にプレミアがついていたりするものも存在するので、おいそれと購入できないのだが、建築論集『建築の樣式的構成』 をたまたま安価に購入することができた。
読んでいたところレジェの名前に出合ったので、日本においてレジェがどういった文脈の中で享受されていたのか、その資料の一つとして引用しておくことにしたい (名前の登場する部分のみの引用だと訳が分からないものとなるので、論考の内容の簡単な要約の後、どういった流れの中で名前が登場するのかが分かる辺りから引用しておく)。
タイトルにもなった論考 「建築の樣式的構成」 は建築様式の歴史を概観する短い論考で、前半は古代エジプト辺りから資本主義社会が成立する近代辺りまでの建築様式の代表的な現象をまとめ、後半を現代の資本主義社会の中で作り出される伝統的形式を打ち破る先端的な建築様式についての考察に当てている。
後半の現代の資本主義社会における先端的な建築様式についての考察は、まず代表的な例としてデパート建築や映画館を挙げるところから始められ、具体的な例としてドイツ東部のケムニッツに建てられたばかりだったユダヤ系建築家エーリヒ・メンデルゾーン (Erich Mendelsohn) 設計のショッケン百貨店――この百貨店は1930年に完成したが、ナチスが台頭し、1933年には政権を奪取こともあって、設計を手掛けたメンデルゾーンは活動の場をロンドンへと移している――を取り上げ、その建築様式についてコンパクトにまとめた後、資本主義社会とは異なる陣営でも同様な建築様式が現れたとしてロシアの現代建築界に目を向けるのだが、しかし、ロシア建築は革命後も尚ファナティズムとロマンティシズムから逃れ得ていないと指摘し、同種の傾向を持つ建築様式としてル・コルビュジエの建築様式に触れ、そこにレジェの名前が登場する。

 ロシアの建築のロマンティシズムに連關して、相似た興味を誘ふ現代の特殊現象は、ル・コルビュジエ系統の形式主義である。ル・コルビュジエは、モスコウの協調會館本部 (ツェントロサユース) の設計に於いて、「科學のロマンティスト」 らしい思ひ付きを發表し、モスコウの地理的條件を無視したことに就いて、多くの非難を受けた。巨大な建築の外部を二重のグラス壁で包み、冷房も暖房も換氣も、悉く通風装置で解決しようと云ふその大膽な試みは、極寒期に於けるモスコウの氣候を考へた丈でも、全然不可能だと云はれている。
 しかし、この種の 「科學的ロマンティシズム」 を除いても、ル・コルビュジエの標榜する 「合理主義」 は、決して、眞の合理主義ではない。其處には、ビューリズムの繪畫と相似た、極端な形式主義が明らかに窺はれる。現代的な感覺に投合するロココめいた装飾趣味が、彼の設計する贅澤な住宅建築の主導形式である。恐らく彼は、高級自動車の新型を案出するやうなつもりで、住宅建築の 「新樣式」 を設計してゐるのであらう。そして、この 「新樣式」 は、何處までもフランス趣味であり、ブルジョワ好みである。
 ブラックやレジェーの描く貴婦人向きの繪が、如何にピッタリとル・コルビュジエ風の住宅に適するか――それを知る丈で、兩者の間の形式的連關は理解されるであらう。
- 板垣鷹穂 「建築の樣式的構成」 (『建築の樣式的構成』) より

この板垣鷹穂のル・コルビュジエへの評価が妥当なものなのかどうかは分からないが、当時はそう見る向きもあったということなのだろうし、また、ブラックやレジェの作品が貴婦人向きのものと表現されているのも、当時そう見る向きがあったということなのだろうが今からすると意外な見方で、少し面白い。

慶應義塾大学で西脇順三郎に出会い薫陶を受けた瀧口修造は、ダダイズムやシュルレアリスムを知って次第に傾倒してゆき、1930年にアンドレ・ブルトンの 「超現実主義と絵画」 を翻訳し、以後、前衛芸術を擁護する批評活動を続けていくことになる。
海外から入って来る情報が限られていた時代、少ない資料をもとにしたエッセイを雑誌に発表していたが、1938年、それまでに発表したエッセイに書下ろしを加えた 『近代芸術』 を上梓。
瀧口修造はこの著書ために書き下ろしたエッセイのひとつ 「抽象芸術論」 でキュビスム以降の抽象芸術の影響と発展、その意義についてまとめており、その中でピュリストとレジェに触れているので、例のごとく引用。

オザンファンとジャンヌレとの共著 「近代絵画」 (1924) の序文には、次のような機械主義の強調を見出すことができる。
「鉄は社会を変革した。それは機械主義 (マシユスム) を許容した。
機械主義は、一世紀のあいだに文明の態度をしたがってわれわれの欲求をも変革してしまった。」
「機械主義の発展によって、幾何学はいたるところに存在している。われわれの感覚は、いまや幾何学的なスペクタクルに慣らされた。われわれの精神はいたるところにこの幾何学を見出すことで満足するしかも絵画の非幾何学的な不定形に対して、ことに印象派のふやけた軟調に対して反抗するようになった。
人間は今や幾何学的な精神によって動くところの幾何学的な動物である。かくしてその芸術の欲求も変形されたのである」
オザンファンやジャンヌレ (ル・コルビュジエ) のピュリスムは、機械的な近代主義を著しく反映したものであって、「機械のようにひとつの絵 (タブロー) を創造することができる」 とか、「絵画は感情 (サンチマン) を伝達する機械である」 と主張したのである。
この立場はフェルナン・レジェの作品の抽象的傾向とも相通じている。これらの作家には、物体 (オブジェ) が重要視されていて、その意味でも近代生活における機械的感性が大きな役割を果たしている。
- 瀧口修造 『近代芸術』 より

ピカソは自身の芸術スタイルがフォロワーを生み出し、更に大衆化されていく様を嫌悪したが、フォロワーとしてスタートするしかなかったレジェはどのような立場に立つのだろうか。
1936年5月、ルイ·アラゴン (Louis Aragon) が主催する公開討論会 「レアリスム論争 (La Querelle du Réalisme)」 が開催され、そこで人民戦線 (Front populaire) 主導の下で芸術教育を行っていくべきであるという主張がアラゴンからなされたのだが、レジェはアラゴンの主張に異議を唱えるべく、雑誌 「コンミュン」 のアラゴンの主張をもとにした 「絵画は何処へゆく?」 との問いに、

偉大な定律、それはオブジェである。近代の教育家は、オブジェの教育的価値を知るべきだ。大衆教育は、今日、街頭のオブジェ、飾り窓のオブジェの陳列によってなされている。商業や産業はオブジェを大衆に与える。こうして大衆の趣味が形成されていく。――オブジェはひとつの社会的価値だ。オブジェを世に出したのはキュビスムである。商業や産業にオブジェの使用法を教えたのもキュビスムである。――オブジェはすべての人々に得られるものであり、学校に競走場に公共記念物等々に利用されるだろう。
- フェルナン・レジェ
(瀧口修造 「抽象芸術論」 (『近代芸術』) より)

という見解を寄せたが、このレジェの希望的ヴィジョンはピカソのそれとはやはり対照的なものである。
また、モダニズムを進化論的に捉えていた瀧口修造は、「シュルレアリスム以後」 の中でレジェが示した絵画の進む二つの方向についても触れており、

 最近フェルナン・レジェは新しい絵画の進む二つの方向として、壁画と新しい民衆劇への進出とを挙げている。前者についてはいうまでもないことだが、一九三七年六月に、ノートルダムの受難劇演出家として有名なアルベールによって、ジャン・リシャール・ブロック作の 「一都市の誕生」 という劇がスタジアムで演ぜられた。レジェはこの民衆劇の舞台装置に金属的要素を生かしたまったく新しいこころみをしたと伝えられている。このこころみの成果は未知数ではあるが、社会的な機能として、今後の絵画が一領域を開拓することは予想されるのである。
- 瀧口修造 「シュルレアリスム以後」 (『近代芸術』) より

と、当時のレジェの最新の動向を伝えている。
レジェが新しい試みをしたという舞台装置がどういったものだったのか気になったので、「一都市の誕生」 の原題 "La naissance d'une cité" で検索してみたが、残念ながら当時の舞台を撮影したイメージを見つけ出すことはできなかった。

レジェは1931年に最初のアメリカ旅行をし、1935年にニューヨークとシカゴで開催される個展に合わせてル・コルビュジエと共に二度目の渡米をし、1938年の三度目の渡米ではイェール大学で講演を行った他に、ロックフェラー邸に壁画を描いたり、マサチューセッツ州東端、ケープコッドの先端にある港町プロヴィンスタウン (Provincetown) で暮らしていたジョン・ドス・パソスを訪ねて旧交を温めたりしている。
そして1940年、今度はは第二次世界大戦から逃れるために四度目の渡米をし、1945年まで同地に滞在。
滞在中、1941年にはニューヨークの画廊で亡命中のマルク・シャガールやマックス・エルンストと会い、1942年にはニューヨークで個展を開催し、1944年にはドイツから亡命中の画家ハンス・リヒター (Hans Richter) の映画 『金で買える夢 (Dreams That Money Can Buy)』 の制作にマックス・エルンスト、マルセル・デュシャン、マン·レイ、アレクサンダー・カルダー (Alexander Calder)、ダリウス・ミヨーと共に協力し、レジェは映画の中のワンシーン 『人工心臓の娘 (The Girl with the Prefabricated Heart)』 の脚本と監督を務めたりと忙しく活動している。

1945年、帰仏すると共産党に入党。
創作活動の幅を絵画や壁画、舞台装置以外にも、ステンドグラス、陶器、版画、書物の挿絵などにまで広げていった。

1955年、セーヌ・エ・オワーズ県 (現在のエソンヌ県) のジフ=シュル=イヴェット (Gif-sur-Yvette) で亡くなった。


キュビスムを代表する画家といえば、ピカソとブラック、そしてレジェということになるのだろう。
もっと極端に言えば、ピカソとブラックこそがキュビスムなのだということになるだろうが、二人ががキュビスムを創始し、そこから一気にその追究したため、多くの追随者は必然的に周回遅れにならざるを得なかったという側面があるので仕方がないといえば仕方がないのだが、追随者の中ではレジェが、他の多くの者と違って、キュビスムの別の側面を見せることに成功したことから――何を持って成功したと言えるのか?このエントリを読めばたちどころに理解できる!、なんてことは全くないので、暇つぶしに読むことをお薦め――キュビスムを代表する画家の三人目として名前が挙げられる、というのがキュビスムを代表する画家の中にレジェが含まれる理由であり、それがキュビスムについての一般的な認識の一部ということになるのかもしれない。
とはいえ、キュビストの中で人気が高いのはやはりピカソとブラックのふたりになるだろう。
二人に比べ、レジェの作品はどうしても野暮ったく鈍重に見えてしまうところがあるので、致し方がないといえば致し方がない。
瀬木慎一はブラックとレジェの画集の作家論で、レジェのフランスでの人気のなさに触れていて、やはりそうなのかと思ったのだが、洗練を良しとするフランス人の気質からすると、ノルマンディの田舎出のレジェの作品には洗練の欠片もないということになり、発展をした都市をテーマにした作品も都会的な洒落た生活の面ではなく、それと裏腹の重工業的な労働を意識させる側面が強く印象付けられることから、やはり、距離を持たれてしまうと述べている。
レジェは活動的でスピード感のあるモダンな都市空間ときらめくような都市生活者の生活環境を描き続けたのではあるが、都会的なエレガントさや洗練されたスタイリッシュさとは無縁といっていいだろう。
また、当時は、ドイツ、スイス、オランダ、北欧、アメリカといった国々でフランスよりもレジェの作品を目にする機会が多かったそうである。
瀬木慎一のこの作家論が書かれたのは、1972年頃のことなので、今現在、フランスでどう受け止められているのかは不明。

英国の写真家セシル・ビートン (Cecil Beaton) は自分の半生とファッション史を同時に綴った 『ファッションの鏡 (The Glass of Fashion)』 の八章目に当たる 「8 美しきものと忌まわしきもの」 を、

 私の生涯のうちで、一九二〇年代ほど虐待や嘲笑の的となり、忌まわしくも醜い野蛮なものといわれた時代はなかった。私は一九二〇年代を大体において活気にあふれた注目すべき時代だと思っているが、これは同時代人の中では多分珍しいことだ。
- セシル・ビートン 『ファッションの鏡』 より

と書き始め、その先を読み進めていると不意にレジェの名前に出くわす。
出来ればその辺りまでを全文引用したいところだがそういう訳にもいかないので、ポイントポイントを掻い摘んで引用してみたい。

 私にとっての一九二〇年代のファッションは非常に魅力的だ。一九二六年とか二七年のファッション雑誌に目を通すと、とりわけ、ご婦人方をスケッチしたファッション・イラストレーターたちの線の簡潔さに打たれる。彼女たちは管のような形 (チューブラー) をした短いドレスに、長いキセルにさした煙草を持ち、クローシュをかぶり、髪を短くして眉毛を抜き、手首から肘にかけてダイヤモンドのブレスレットを巻き、瓢箪草 (フクシア) のようにイアリングを垂らして、この時代の視覚的な面を象徴していた。

 『緑の帽子 (グリーン・ハット)』 や 『踊るわれらの娘たち』、密造されたジンまがいの酒、スピード、危地に追い込まれた若者たちの動揺 (エキサイトメント)、ギャング、そして乱行に特色づけられるあの十年間を連想させてしまうあらゆる有害な価値のおかげで、それが創造力のきわめて豊かな時代でもあったことを忘れている人もいるように思われる。この時代以降、当時のように大きな貢献をした作家、役者、美術家、映画スターなどを指摘することはできない。
 文学はハクスリー、ヴァージニア・ウルフ、E・M・フォースター、フィッツジェラルド、フォークナー、ヘミングウェイ、ソートン・ワイルダーなどを生み、映画はガルボ、グロリア・スワンソン、チャーリー・チャップリンなど、他の追随をまったく許さない偉大なスターたちを生み出した。美術はダダイズム、キュービズム以降のピカソ、クレー、ドイツ表現主義者たち、ブランクーシを生んでいた。
- セシル・ビートン 『ファッションの鏡』 より

 アメリカでは 「ヴァニティ・フェア (虚栄の市)」 誌に掲載されたミゲル・コパルルージャスの漫画がハレムを賛美して、カール・ヴァン・ヴェクテンが 「黒ん坊天国」 を書き上げたところだった。そして 「黒人 (ブラックバード)」 レビューとコットン・クラブが大成功を収めていた。人人はともかくもハレムを真夜中から夜明け方にかけて訪れるような活力を見出し、ナイト・クラブに群がっていた。
 そこでは新し踊りの精妙なリズムに、ジャングルの熱気が加わっていた。大衆化したジャズは長いこと大流行していたが、白人たちは今より根源的なジャズを求めていた。黒人たちがダウンタウンにやって来て、個人のアパートでチャールストンやブラック・ボトムを教えていた。ハレムは次第に少しずつダウンタウンに移って行き、それからパリへと拡がって行った。
- セシル・ビートン 『ファッションの鏡』 より

 女性の容姿は戦争が終わるたびごとに一変すると言われている。フランス革命はギリシャ風のドレーバリーをもたらし、第二次世界大戦はニュー・ルックをもたらした。そして一九一四年の大戦の後には女らしさの概念の完全な革新が行われた。この革命は平面的でストレートなラインをもたらし、胸や全体の輪郭 (シルエット) を平らにしてしまった。だが、それは、美術におけるキュービズムや、フェルナン・レジェの管状をした世界に、皮相的に結びついたものではない。というのは、戦争の余韻さめやらぬ一九一八年にファッションは現代美術の影響の跡を表し始めていたからだ。
- セシル・ビートン 『ファッションの鏡』 より

時のファッション・イラストレーターたちが描いたチューブ形状の短いドレスの女性たちの姿は好ましいものであり、キュービズム以降のピカソはその時代に大きな貢献をした偉大な美術家として名前が挙げられている。
そこで油断していると、フェルナン・レジェの名前があまり肯定的とはいえそうもない文脈の中に登場し、分かるんだよ、分かるんだけど……と、微妙な気分になってしまう。
だから 「出くわす」 などという言い方をしたのだけど。

まあ、どこで誰が評価している、あるいはしていないといったことに関わりなく、自分はフェルナン・レジェの作品が好きなので、全く気にしていない、いや、本当に。


ポストした作品は、

"Étude pour La Femme en Bleu (Study for the woman in blue)" (1912)
"Les deux femmes et la nature morte 02 (Woman and Still Life 02)" (1920)
"Le Petit Dejeuner (The Breakfast or Three Women)" (1921)
"Skating Rink dessin du rideau de scène (Skating Rink drawing of the curtain of scene)" (1921)
"Femme tenant un vase (Woman holding a vase)" (1924-1927)
"Contraste d'objet (Contrast of Object)" (1930)
"Les perroquets (Les acrobates)" (1933)
"Les deux femmes au vase bleu (The two women in blue vase)" (1935)
"La grande Julie" (1945)
"Les Loisirs sur fond rouge (Leisures on Red Bottom)" (1949)

の10点。
以前ユニバーサル・ミュージックから出ていたフランシス・プーランクのアルバム 『プーランク:室内楽曲集 (Francis Poulenc - Chamber Music)』 には、10枚目にポストした1949年の作品 "Les Loisirs sur fond rouge (Leisures on Red Bottom)" がジャケットとして使用されていたこともあって、自分の中ではレジェの絵とプーランクの音楽が結びついてしまっている。
また、YouTube にアップされているアルテュール・オネゲル (Arthur Honegger) の1920年の曲 『チェロソナタ ニ短調 (Sonata for cello and piano)』 や1924年の曲 『ピアノ小協奏曲 (Concertino per pianoforte e orchestra)』 や1929年の曲 『チェロ協奏曲 ハ長調 (Concerto per violoncello e orchestra)』 や1932年の曲 『ヴァイオリンとチェロのためのソナチネ ホ短調 (Sonatina for violin and cello)』 や1932/1933年の曲 『交響的楽章(運動)第3番 (Mouvement Symphonique n° 3)』 にレジェの絵が使用されているのを見つけ、この両者の結び付きもいいなあと動画をアップした方の思惑に思いっきり嵌っている。
上でドイツの音楽学者フレート・K・プリーベルクの著書 『電気技術時代の音楽』 を引用したが、オネゲルへの言及もあるので、その部分を引用してみよう。

オネゲル Arthur Honegger はある時、次のように告白している。すなわち 「私はいつも機関車を情熱的に愛している。私にとってそれは生きているものであり、他の人が女性や馬を愛するように私はそれを愛する」 と。彼の 「パシフィック二三一 Pacific 231」 の序は 「静止している機械の静かな呼吸、ひき出すときの緊張、抒情的頂点に達するまでにだんだんと増す速度、夜の闇を時速百二十キロで突進するに三百トンの急行列車の激情」 をたたえている。後になって行われたこの曲の映画化は、これがいかに技術的な象徴であるか、つまりまさに 「その場から動かす loko-motivisch」 ものの標題音楽であるか、ということを確認している。オネゲル自身、そのことを (機関車についての標題音楽であること) を否定しているのである。
- フレート・K・プリーベルク 『電気技術時代の音楽』 より

プリーベルクは続けて二つの世界大戦間に現れた、機械をテーマにした楽曲を羅列していき、当然その中にはレジェが制作した映画 『バレエ・メカニーク』 の伴奏曲となるはずだったアンタイルの 『バレエ・メカニーク』 も登場する。
なかなか面白いリストなのでその部分をすべて引用しようかとも思ったが、さすがに引用疲れで、気が向いた時にでも追加するかな、ということにしておきたい。


フェルナン・レジェの作品がどういう訳か好きで、ブログの更新をしないのをいいことに締め切りを設定せずダラダラとまとめていたら、これまでになく長々としたエントリとなってしまった。
まあ、読んだからといってレジェの絵画への造詣が深まるわけでもなく、何を語りたいのか、どう語りたいのかといった方針の定まっていない、長文の引用を羅 列しただけの、ハイカロリーといえば聞こえがいいが情報がただゴッチャリと散漫にまとめてある、ただそれだけのエントリではあるのだけど。
この無駄に長いエントリ、いったい誰が読むというのだ?と考えないでもないが、まとめている間、色々な本を再読したり、積読本をようやく読んだりということも出来て、個人的には楽しい時間が過ごせたので、それでよしとしたい。
ただ、このエントリは一気に書いたものではなく、時間をあけ、徐々に書き加えていったので、その折々の体調や気分でいささか文体が異なっており、元々悪文書きで読み辛いものがさらに輪をかけて読み辛いものとなっているように思うのに、面倒臭がって文体の統一なんぞということをしていないので、虚弱な方は読んでいて途中で心が折れてしまう仕様となっている。
そう、当ブログはそれが仕様なのだ、ということで、ひとつヨロシク。


Wikipedia
Fernand Leger - WikiPaintings.org
Fernand Léger | Fondation Beyeler
Musée national Fernand Léger
fernand leger 1910-1954.folder
Ciudad de la pintura - La mayor pinacoteca virtual
The Athenaeum - Displaying artworks for Fernand Léger
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Fernand Leger
CGFA- Misc. Artists -L- Page 5
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