Sunday, May 24, 2009

Gottfried Helnwein





Gottfried Helnwein (ゴットフリート・ヘルンヴァイン)
1948年10月8日ウィーン生まれの画家、写真家、パフォーマンスアーティスト。
物議を醸す過激な表現を時としておこなう。

ゴットフリート・ヘルンヴァイン (Gottfried Helnwein) の作品は見ていると気分が滅入ってくるのでそんなに度々見返したりはしない。嫌いなのかというとそうでもなく、時たま無性に作品を見たくなることがある。どういったときに見返したくなるのだろうと考えてみたが、そういえばここ2、3年そういった気分になったことがなかったということに思い至った。そういった気分?それがどういったものなのか、音楽であれば、答は簡単に見つかりそうだ。数年に一度、思い出したように聴き返したくなるアルバムがあり、そのときの気分はすぐに思い出せるからだ。しかし、ヘルンヴァインの場合は、ここ最近は自分で好んで作品を見返すという気分が訪れていなかったということが分かっただけで、それが果たしてどんな気分だったのかはまるで思い出せない。ボクはどういった時にヘルンヴァインの作品を見返していたのだろう?


ブログを始めた頃にフランスの写真家 William Ropp のエントリを立てたことがあった。この人が撮る少女たちには鬱屈したところがあり、作品を見ていると気分がどんよりして来るのだけど、その時一緒にこのゴットフリート・ヘルンヴァインの作品もポストしようかなと思ったのだ。が、気分が乗らないのでパスをした。次にポストしようかなと思ったのは、Dino Valls の作品の2度目のエントリを立てた時だったが、この時も結局ヘルンヴァインのエントリは立てずに終わった。で、今回が3度目。


ゴットフリート・ヘルンヴァイン (Gottfried Helnwein) の作品に最初に接したのは、今回ポストした有名な包帯少女ではなく、雑誌で見たスコーピオンズの1982年のアルバム 『蠍魔宮〜ブラックアウト "Blackout"』 でだった。このアルバムのジャケットを飾っているのがヘルンヴァインの作品だったのだ。
包帯少女はどこで出合ったのだろう?思い出せない。ただ、スコーピオンズのジャケと包帯少女を描いたアーティストが同一人物だと知ったのは、ウェブ上で包帯少女に再会してからのことで、それまでは両者を結び付けて考えたこともなかった (と、このエントリをまとめた時点では思っていたのだが、後に段ボール箱にしまい込んでいた伊藤俊治の 『写真都市』 を引っ張り出してパラパラ捲っていてゴットフリート・ヘルンヴァイン論を見つけ驚いた。確かに読んだ記憶があるのにすっかり失念していたのである。包帯少女との出会いはおそらくこの本でのことになる。折を見てこのヘルンヴァイン論から一部を引用してみたい)。

"Beautiful Victim II" に代表される包帯少女は、児童虐待をテーマとした作品ではあるのだけど、一部ではそういった文脈から切り離されて、フェティシズムの対象として愛好されているのではないだろうか。と、他人事のように書いてしまったが、このエントリにポストする作品のチョイスからして、ボク自身にももちろん当てはまることだ。だけど、こういったバイアスをかけないと、ヘルンヴァインの作品はちょっとシンドイ。

包帯フェチを煩った人は昔からいて、以前は片隅の方でそういった嗜好についての情報を漁ったり実践したりしていて、他にも例えばメディカルアートの中にそういったものを求める人もいた。球体間接人形作家のなかにも、人形に包帯を巻いている人がいたように記憶しているが、記憶違いかもしれない。それが、90年代にトレヴァー・ブラウンが登場し、『エヴァンゲリオン』 の綾波レイが地上波に乗ってお茶の間に登場して以後、状況が劇的に変化したんじゃないかと思う。クリシェ化したとか記号化したとかいう印象が強くなった感じがする。といっても、検証したことがあるわけではないので、印象はあくまで印象に過ぎないのだけど。


このエントリで一枚目にポストした作品は、"Beautiful Victim II" という作品で、1974年に製作されている。ゴットフリート・ヘルンヴァイン (Gottfried Helnwein) の日本版オフィシャルサイトにこの作品へ言及したブログからの引用があり、僕は今回その文章を初めて読んだ。それは、「夢を走る」 という一文から始まっている。そこで、ああっ、と思う。すっかり忘れていた。日野啓三の本に 『夢を走る』 というタイトルの短篇集があり、この文章を書いた人は、その短篇集に収められたある作品を "Beautiful Victim II" と重ね合わせているのだ。「夢を走る」 という一文が目に入っただけで、そのことにすぐに思い至りはした。しかし、この二つの作品を結び付けて考えたことがなかったボクは、そのことがとても悔しい。

『星の流れが聞こえるとき』 というのがその短編のタイトル。登場人物は若者と少女のふたり。不安に駆られあてどなく東京の中を逃げ回っている若者が、運転中の車中から小さな白い影のようなものを見かける。それは白い服を着た小さな女の子で、若者はそれに心を強く動かされた。
下町に住んでいた小学生の頃見かけた、金魚売りの屋台が現れるとどこからともなくやって来て、またどこかへ去ってゆく白い影法師。若者はそんな少女の姿をふと思い出し、懐かしい気分に浸る。

少し脱線するが、この回想シーンは、多分この短編が書かれた当時 (1984年) に公開された押井守の 『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』 の一場面を少し改変したものではないだろうか。昔古本屋で立ち読みしただけなのでうろ覚えなのだが、ある雑誌 (多分SWITCH) に日野啓三のインタビュが掲載されていて、息子がアニメ好きで、日野自身もよくアニメを観ていた、例えば 『ダンバイン』 という作品は世界観が重層的で面白いとかなんとか答えていたと記憶している。そこから考えると、『ビューティフルドリーマー』 を見ていてもおかしくはないのではないか。

話を戻すと、車を少女に近付けた若者は、白いワンピースを着た少女がまだ七、八歳で、手足だけでなく、顔まで繃帯を巻いていることに気付く。公園で思い切って声をかけてみたが反応はなく、表情を読みとろうとした若者は少女の目を見て慄く。別れてからも白い繭に包まれた様な少女のことが気になってしまい、次の日曜日に再び少女のいた公園へと足を向けてしまう。ここからふたりの交流が始まる。会うたびに視力を失い衰弱していく少女には、草がのびる音や花が開く音やいろいろな虫が働いたりけんかする声や石にひびが入る音や樹が水を吸い上げる音などが聞こえるのだという。ふたりは週に一度、少女が録音したという何百種類もの鳥の啼き声、灯台の霧笛のようなクジラの声、風の音、木の葉の音、砂が流れる音、雨の音、川の音、海の音をラジオカセットで聞いて過ごす。ある時にはこんなこともあった。

若者にはなにも聞こえないテープがあった。「これは何も入ってないテープだ」と若者が取りかえようとすると、少女は怒った。
「これは雪の降る音よ。ことしの冬、大雪が降ったでしょ。その音をわたしが夜じゅう寝ないで録音したんだから。この音が聞こえないなんて」
日野啓三『星の流れが聞こえるとき』(『夢を走る』中公文庫より)

若者は少女のために様々な音を録音して過ごす様になる・・・・・・。

ヘルンヴァインのサイトに引用されたブログの文章の中には、『星の流れが聞こえるとき』 がヘルンヴァインの絵に影響されて描かれた作品ではないかという推測がなされている。日野啓三がヘルンヴァインに言及したことがあるのかどうかは不明とのこと。言及したことがあってもなくても、この作品はヘルンヴァインの作品をフェティシズムの罠に嵌ることなく、その影響を昇華できた作品だと思いたい。

ポストした作品は、

"Beautiful Victim II" (1974)
"Lichtkind (Child of Light)" (1976)
"The Disasters of War 3" (2007)
"The Murmur of the Innocents 4" (2009)

の4点。作品は古い順になっている。こうして見ると、70年代と00年代の間に何が変わったのかよく分かるのではないだろうか。


書き終わった後、件のブログを訪ねてみた。「夢を走る」 というのはエントリのタイトルであり、文章の書き出しではなかった。確認してよかった。ヘルンヴァインのサイトでも内容は読めるが、Trust : 夢を走る で直接読んでみるのもいいだろう。


《関連エントリ》
traveling with the ghost: William Ropp
traveling with the ghost: Dino Valls 02
traveling with the ghost: Dino Valls


Gottfried Helnwein | | | ゴットフリート・ヘルンヴァイン オフィシャルサイト
Wikipedia


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Monday, May 18, 2009

Alice Neel











Alice Neel (アリス・ニール)
1900年1月28日ペンシルバニア州のメリオンスクエア (Merion Square) 生まれ。
米国の肖像画家。

生後3ヶ月でデラウェア郡へ引っ越した。
高校卒業後は家計を助けるために、国家公務員試験をパスし、高給職の事務員となる。3年働いた後、フィラデルフィア女子デザイン学校 (Philadelphia School of Design for Women) の夜間クラスへ入学。なぜ女子校にしたのかその理由を、異性からの誘惑に惑わされないようにするためによ、と後に答えている。
卒業と同時に、後にヴァングラディア・ムーブメントという、キューバの前衛芸術運動に関わることになる裕福な家庭に育った芸術家の卵カルロス・エンリケス (Carlos Enríquez Gómez) と出会う。
1925年にふたりは結婚し、ハバナへ移住。キューバ前衛運動の若い芸術家や音楽家から温かく迎えられ、この交流の中で終生変わることのない政治意識に目覚める。

1926年に最初の子供を妊娠。娘のサンティラーナの誕生後、両親の元へと帰り、カルロスも後を追って渡米、そして家族でニューヨークへと移った。最初の誕生日を迎える前にサンティラーナはジフテリアで亡くなってしまう。アリスは精神的な傷を抱えることとなり、子供の喪失という出来事は、その後描く作品に顕著となる母性、損失、および不安のテーマの先例となった。

サンティラーナの死後間もなくして、アリスは第二子イザベッタを妊娠。1928年の娘の誕生は、保育所より精神病棟を彷彿させる産婦人科を舞台とした、気の滅入るような母親と赤ちゃんの肖像 "Well Baby Clinic" という作品を描くきっかけとなった。検索して該当の作品を見てもらえれば分かるけど、かなりキてる。

アリスとカルロスの関係は日毎に悪化していき、1930年春、カルロスは娘と共に家を出、キューバーへ戻ってしまった。夫と娘をいっぺんに失ってしまったアリスは深い喪失感に襲われ、重い精神衰弱となってしまう。そして、入院。すぐに退院したものの、今度は自殺未遂を起こし、フィラデルフィアの一般病院の自殺未遂患者が入れられる病棟で約1年過ごすことになった。1931年に退院しすると実家に戻り、しばらく療養生活を送った。、快復までの間、親友の Nadya Olyanova が長期間に亘ってアリスの様子を窺っていたという。快復後、アリスは再びニューヨークへ戻っていった。

ニューヨークでの活動を再開したアリス・ニールは、地元に暮らす人たちのポートレートを描き、1933年に制作した 『Joe Gould』 のポートレートは一躍アリスを有名にした。このポートレートには3人の裸の男が描かれている。左右の男達は胸から下辺りしか描かれておらず、顔が見えない。その代わり目に付くのは、灰色がかった乳白色の体へ対比されるように強調された赤茶けたペニスである。中央には椅子に座った全裸のジョー・グールドが描かれていて、このグールドさん、不思議なことに股間のペニス以外にもお腹からペニスを生やし、椅子の下にもニョッキリとペニスを垂らしているのだ。言葉で説明しても分かりづらいと思うので、興味のある方は検索してみるといいだろう。
アリスが描く人物たちの多くには、芸術家や知識人、共産党の政治指導者が含まれていて、彼らはアリスの作品を賞賛していた。

1933年の末、アリス・ニールは雇用促進局(WPA)の雇用を受け、生活にゆとりが生まれる。
1930年代、ニールはアーティストとして、ある程度の悪名を馳せ、ダウンタウンの知識人と共産党リーダーたちの間では良い地位を確立していった。ニールは共産党メンバーはなかったが、共産主義の理想へ連帯感と共感は続いていたのである。

1939年には、1935年に会ったプエルトリコ人のナイトクラブの歌手ホセ・サンチャゴとの間に男児を儲ける。リチャードと名付けられた。ニールは、スパニッシュハーレムへ引っ越し、隣人たち、特に女性と子供を描き始めた。しかし1940年、ホセ・サンチャゴはニールの元から去ってしまう。
翌年、共産主義者の知識人であった恋人のサム・ブロディとの間に次男ハートリーが誕生。
2年間に渡って学校で絵を教え始める。
この10年間、ニールは共産党の機関紙 "Masses & Mainstream" のためにイラストを手がけ、アップタウンの住人たちのポートレートを描き続けていた。

1940年から1950年にかけ、1944年の初の個展を除くと、ニールの作品がギャラリーから消えてしまう。
そして1950年の末。12月26日から1月13日にかけ、実に6年ぶりとなる個展を A.C.A. Gallery で開催。作品17点を公開した。
ジョゼフ・ソルマン (Joseph Solman) はパンフレットに次のように書いた。
Alice Neel is primarily a painter of people. Waifs and poets, friends and Puerto Rican neighbors come in to sit for her - and she probes one without sermon or sentimentality. At times, an element of foreboding, akin to that in the work of Munch, creeps into her work; and there are portraits that are almost vivisections. But always her communication is so irresistibly direct that a great intensity infuses her work.
左派の著名なジャーナリストであり、二ールの友人であったマイク・ゴールド(Mike Gold)は、12月27日付のDaily Worker誌に次のような批評を書いた。
There isn’t much good portrait painting being done today, and I think it is because with all this war, commercialism and fascism, human beings have been steadily marked down in value, despised, rejected and degraded.
また、ニューヨークタイムズも数日遅れて次のようなレビューを載せた。
Emotional values predominate in Alice Neel’s paintings of people at the ACA Gallery. Her approach is frankly expressionistic; she uses a great deal of black, accentuating profile lines, and catches figures in strongly individual poses. And its dramatic intensity succeeds because of unmistakable artistic sincerity.
このような援護もあって、久しぶりに開いた個展は成功に終わったのである。
翌1951年には、マイク・ゴールド主催の個展が Communist-inspired New Playwrights Theatre で4月23日から5月23日にかけ開催され、こちらも成功。
マイク・ゴールドはパンフレットに次のように書いている。
Alice Neel is a pioneer of socialist-realism in American painting. For this reason, the New Playwrights Theatre, dedicated to the same cause, presents her paintings to its audiences, who will know how to understand, appreciate and encourage one of their own.

1959年、アリス・ニールは写真家のロバート・フランクに映画に出て欲しいと乞われ出演する。『プル・マイ・デイジー "Pull My Daisy"』 というこの映画は、映画としてはロバート・フランクの処女作に当たり、写真集 『The Americans』 出版直後から製作が開始された。脚本とナレーションをジャック・ケルアック (Jack Kerouac) が務め、アレン・ギンズバーグ (Allen Ginsberg) をはじめ、ピーター・オーロフスキー (Peter Orlovsky)、グレゴリー・コーソ (Gregory Corso) などが出演している。

1960年代になると展示会に参加することも多くなり、雑誌に作品が掲載されることも多くなっていく。また、初めてのヨーロッパ旅行を経験するのもこの時代になってから。そして、女性解放運動の隆盛に伴い、ニールの評価は益々高くなっていった。1970年、『性の政治学 "Sexual Politics"』 を出版したばかりのケイト・ミレット (Kate Millett) に Time 誌の表紙を飾るポートレートを描いて欲しいと依頼される。このポートレートは、見るからに怖いので今回はポストをしない。よって、興味のある方は云々・・・
1970年にはもうひとり、アメリカを代表する人物のポートレートを手がけている。ソファにちょこんと座った弱弱しい人物。上半身は裸で白髪。最初に見たときはどこかのおばあちゃんかなと思ったのだけど、タイトルを見て、アリス・ニールの意地の悪さに笑ってしまった。この人物画誰なのかはここに書かないので、興味のある方は、って、まあ、いないと思うけど、個々で探してください。

1984年10月13日、評価が高まる中、ニューヨークのアパートで亡くなった。

ポストしたのは、

"The De Vegh Twins" (1975)
"Linda Nochlin and Daisy" ()
"Portrait of Girl in Blue Chair" (ca.1970)
"Religious Girl" ()
"Young Woman" ()
"Faith Ringgold" ()
"Isabetta " (1934)
"Kitty Pearson" (1973)
"Nadia and Nona" (1933)
"Nancy and Olivia" ()

の10点。

Alice Neel
Wikipedia
Tate Collection | Alice Neel
Alice Neel
UAM: Kinships: Alice Neel
CGFA- N- Page 3
Saatchi Online - Blog On News, Views, Diaries, Photo-Journals


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Saturday, May 16, 2009

山城えりか (Erika Yamashiro) Exhibition Information - NEXT DOOR 「MIX EXHIBITION 弱肉強食」 - @ T&G ARTS


山城えりかから現在参加している展示会のお知らせが届いた。11名のアーティストが参加したNEXT DOOR 「MIX EXHIBITION 弱肉強食」。六本木のギャラリーT&G ARTSで14日から既に開催中とのこと。
頂いたメールによると、

今回は角川書店さんから出版される小説のハードカバーのお仕事を受け、 その原画を展示しています。(小説の発売は6月中旬です。)

ということらしい。誰のなんという作品なんだろう?
それにしても山城えりかの描く世界は相変わらずオイラのツボだ。ケーキのようにこちらまでトロケてしまいそう。


NEXT DOOR 「MIX EXHIBITION 弱肉強食」

2009年5月14日(木)~2009年6月11日(木)

■参加アーティスト
長田哲、山城えりか、渡辺おさむ、武居功一郎、
山崎龍一、Jang-Chi、シムラユウスケ、渡辺元佳、
松山晃子、石森忍、美島菊名


T&G ARTS
〒106-0032 東京都港区六本木5-9-20
TEL: 03-5414-3227
MAIL: tga@t-g-arts.com 
HP: http:www.t-g-arts.com

Gallery 営業日: 日曜、月曜、祝祭日を除く11:00-19:00
Bar営業日: 不定休 20:00-29:00

※ギャラリー営業日や営業時間が事前に変更になる場合があります。(金曜日、土曜日は特に)
来場前にはホームページnews欄で最新の情報を確認することをお勧めします。

http://www.t-g-arts.com/modules/news/
http://www.t-g-arts.com/modules/contents/index.php?id=219


《関連エントリ》
traveling with the ghost: 山城 えりか (Erika Yamashiro)
traveling with the ghost: 山城 えりか (Erika Yamashiro) Exhibition Information @ Wada Fine Arts


Erika Yamashiro


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